2014年3月2日日曜日

現代数学

 ヒルベルトの時代、論理主義、形式主義、公理主義の間に論争があった。  形式主義と公理主義が同じものであるとの視点を持てていれば、現代思想、原始仏教の到達点と同じものになっていた。  あくまで数学という学問の上での話であるが、ヒルベルトは数学のみならず、人類史の、思想の中で重要な人物である。  現代思想を理解する鍵は数学にある。  現代的な構造とは何かを理解したければ、構造の学問である数学抜きには語れないはずである。  森羅万象のもつ物性と事性のうち、物性を完全になくした極にある世界を研究するのが、数学と言える。  数学は無矛盾性、完全性、独立性を持った構造を扱うことが多いが、実は矛盾、不完全、非独立の、文学、芸術、精神分析が対象とすることが多い構造を扱う数学もあり得る。  一時期、非線形性、カオス、複雑系などの関心がそれであるのかもしれない。    現代数学を知ること、それが大切である。  

2013年1月23日水曜日

構造線

 地形には意味がある。  川がそこを流れるのには必然性が、山がそこにあるのは必然性がある。  冬に日本海側を通った時に糸魚川を通った。  糸魚川静岡構造線というのは日本アルプスや関東平野、そして日本列島がなぜ折り曲がっているのかなど、日本列島の地形を考える際に大変役に立つ構造線である。  それは日本アルプスの東縁を形成し、フォッサマグナと言われる構造の西縁を成す。アルプスは岩盤の龍樹とすれば、フォッサマグナは岩盤や堆積が混在する地層を成す。それはまた日本列島が折れ曲がる際に形成されたものである。  日本列島でもう一つ重要な構造線は中央構造線である。中央構造線も日本列島の地形を説明する際に重要である。例えば吉野川と紀ノ川がなぜ向かい合ってかつ一本の連続した線をなすかなどを説明する。  糸魚川静岡構造線と中央構造線の交点は諏訪湖であり、なぜあそこに諏訪湖が存在しているかなどを説明する。

2012年1月31日火曜日

貨幣の自由化

現在の通貨体制はドメスティックには中央集権的に物価率を固定するよう意図されている。
そもそも物価率を変動させない様な計画経済体制が今後どのように推移していくのか。
ある条件では物価率が変化しないことは自由経済の理に反している可能性もある。
経済的な近代の完成は通貨発行を閉鎖的な単一経済圏の中で一つに集約することにあったのかもしれない。
ただ今後この「単一経済圏」ということと「一つに」ということがどのように変化していくかは自明ではない。単一の通貨発行体の規律や信用が低下する可能性もあるし、通貨発行体がある地域で単一である必要かなくなっていくかもしれない。
多様な価値体型が共存し交換、裁定されていくようなモデルが尊重される世界は魅力的だ。
通貨のみならず価値あるいは情報、時に言語が多様に共生できる世界のイメージである。

2010年9月13日月曜日

デザイン

我々は色や形や質感、そしてそれらの構成によって世界をとらえている。
これらを我々が意識的に構成して人間同士のコミュニケーションを行おうとする場合、これらを広い意味でのデザインとしてとらえてみる。
ファッション、建築、インテリア、プロダクトデザイン、インダストリアルデザイン、グラフィックデザイン、絵画や彫刻などのアートなどがそれにあたる。
デザインを構成したり分析したりする際には現代では現代思想のポスト構造主義の方法論が有用なツールであり、また逆にポスト構造主義者にとってはデザインは自らを生かせる対象となる。
デザインやデザインの意味というのは人間の精神にとっては"現前"と呼ばれるものであり、現前を中心的なテーマとして扱う学問がポスト構造主義だからである。
あるデザインが人間にとってどのような意味があるのか、それがどのように時代や社会の中で変わるのか、あるデザインがどのように産み出されるのか、それらはポスト構造主義ではある現前の意味と変化と産生を扱っていることに等しい。
デザインは時代や社会などのいろいろな状況の中で新たな意味を持ったり意味が変化したり意味を失ったりする。
ファッションや芸術の様式は時代とともに変化する。
なぜ変化するのか、どのように変化するのか、それを考えることは我々と世界の関わり合いの仕組みを知ることでもある。

2010年2月28日日曜日

常識について

常識、当たり前、空気、社会性、対人相互性などと呼ばれるものは現代思想では、シミュレーション、シミュラークルなどと呼ばれるもので論理、合理、公理主義などとは時に反するものです。

一貫性を持たないこと、矛盾していること、整合性を持たないこと、規則を破ること、独立性を持たないこと、完全性を持たないこと、時間と場所で言うことを変えることが常識的と見なされることは数多くあります。

社会性、対人相互性などはふりをすること、模倣すること、まねをすること、目立たなくすることなど、体系的な思考をしないこと、ルールや法則を破ることなどと関係がある概念である場合があり、空気や当たり前、常識というものとも関係があります。

脳と現代思想

脳の下位の階層はホメオスターシスや生体の生理機能をにない、新皮質は論理や言語をにない、その中間の古皮質、原皮質などの辺縁系は状況やコンテクストの知覚(認知というと高次すぎるので)やモダリティー付けをになうとざっくり割り切ってみます。

新皮質は論理や言語、すなわちメタ認知であり、現前を使いこなす、あるいは現前性に使いこなされてしまう部分です。

コンテンポラリズムの主張は、ポスト構造主義、現代論理学、数学基礎論などにより頭を訓練することにより、これらを現代社会の知的基盤とし、人々がこの共通の基盤を習得し教養とすることで、人と人とが誤解なく話を通じさせることができるようにするということです。

合理性、論理性を鍛え、どの公理、原理原則に立って話をしているかを自覚し、話をするときは相手に自分が何の公理に基いて話をしているのかを明確に示すことで、共通のリテラシーを持ったもの同士の間では、はなしを通じさせることができるようになります。

ただ必要な場合にそのように話すことができるオプションを訓練によって身につけておくということになります。

多くの人がそのような素養を持つことで知的基盤が形成されていきます。

これは理屈人間になれということではありません。

ただ合理的・論理的に話すかどうかを最初に明示し、論理的に話すのであれば、現代思想(ポスト構造主義や現代論理学や現代数学基礎論など)の基盤にのっとって話し、論理的に話さないのであればそうであることを相手にはっきり示すと言うことです。

理を用いて話さないときはしばしばあります。

常識に従って、感性にしたがって、芸術の話、官能の話、余暇、恋人との語らい、友達との語らい、情緒や感情の話、神秘主義の話などです。

別に公理的に話さないのは悪いことではありません。

ただそれは明示したほうがよく、また合理的に話すべきシチュエーションでは論理的に話せる訓練を共通のリテラシーとして知的基盤の上に立つためにするのがよく、それができない場合はそのことを率直に示すべきです。

哲学と社会思想

哲学というのは、おのおのそれに親和性のある主義や社会思想と非常に関係を持ちやすいものです。

問題はその哲学がどんな、主義や社会学方面の倫理・思想と関係を持ちやすいかです。

現代思想の中の、特にポスト構造主義というのは、個人や自由の尊重、差別や偏見の否定、他者性や外部性、コミュニケーションや多様性の尊重、オープンであることの大切さなどの社会思想とラディカルに高い親和性を持ち、それらの基盤となりうるものです。

また情報処理や情報科学や、論理、合理性、公理性、ルールや規則の尊重などとも高い親和性を持ち、現代を支える基盤になる思想であり、現実に諸科学の基礎付けはこれによっています。

また、論理を尊重するゆえに逆に論理で割り切れないものも大切にします。