2021年2月11日木曜日

超簡単な構造主義入門

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2021年2月4日木曜日

超簡単な仏教入門

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2020年12月31日木曜日

やさしい仏教入門 空と中観の理解へ

やさしい仏教入門 空の説明を行う。 まず実を対立概念として絵ブドウの実と皮、空き家と人の住んでいる家、中身があって見た目がダメな男と中身がないが見た目がよい男を例に出して空と実を説明してみようと思います。 やさしい仏教入門 空と中観の理解へ はじめに  理解と納得は違うものです。理解していても納得出来ないことがあるし、納得していても理解も出来ないこともあります。同じく説明もそうです。理解していても納得していても説明できないこともあるし、説明できても理解も納得も出来ていないことがあります。  仏教は普通に考えられる宗教と全く異なるところがあります。仏教は分かるものです。といっても仏教にも色々な宗派があります。各宗派の教義には宗派独特のものがあり、その中には分かるのではなく信じるしかないようなものも確かにあります。しかし仏教の、特に日本の仏教の源流である大乗仏教の核心の教義である空や中観の考えは思考で理解するものです。ですから欧米では仏教を宗教ではなく哲学と見なす人が多いようです。  仏教はお釈迦様により開かれ、お釈迦様の死後に根本分裂、枝葉分裂と分派を繰り返し、現在の仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つの系統からなっています。大乗仏教は北伝仏教ともいい、インドから北回りに広がり、現在ではブータン、チベット、日本などにある仏教です。上座部仏教は南伝仏教とも言いスリランカ、ビルマ、タイなどにある仏教です。  大乗仏教の創始者はナーガールジュナ(龍樹)といい、大乗仏教の第一祖で龍樹菩薩とも呼ばれます。大乗仏教が確立したのはナーガールジュナが空論と中観論という理論を作ったからです。この空と中観の概念がお釈迦様が悟ったことというのが大乗仏教の立場です。  大切なのは大乗仏教では無条件の信仰も超自然的なオカルト的精神状態も必要としていません。空と中観を思考によって理解し納得することが仏教の核心です。  何かが分かるとは理解すること、その理解に基づいて納得することです。そのためにはその何かがきちんと説明されていないといけません。お釈迦様の時代の人類の発展度ではお釈迦様が悟った内容は説明が難しかったのだと思います。お釈迦様の教えはお経などの仏教の文書で残されていますがお釈迦様が悟ったことが空や中観であるかどうかもはっきりしません。おそらく当時の知的水準ではお釈迦様の空と中観の説明も曖昧だったのかもしれません。またお釈迦様の教えを残した人々も正しく教えを理解していたかどうかも怪しいと思います。  ナーガールジュナが仏教の核心として再発見した空と中観は例えば中国仏教の天台智顗の三諦論(中、空、戯(仮)の3つの諦(真理)からなる論)という形でまとめられます。仏教の核心を簡略に伝えると言われる般若心経の「色即是空 空即是色」という言葉は有名でしょう。日本仏教で日蓮は(日蓮が空と中を正しく理解していたかは実際は疑問がある)「三諦論と法華経に帰れ」と主張しました。  仏教の中核は「空」と「中観」であって仏教の必要条件と言えます。極論、独断でいえばお釈迦様にせよその後の宗派にせよ、「空」と「中観」以外の要素は文化や伝統として親しみ継承していけば十分でしょう。  過去に説明が困難であった概念も現代の文明や知識の水準では豊富な説明方法があります。  「空」と「中観」を理解する事は仏教を理解することや、単なる知的好奇心を満たす以上の意味があります。空や中観は現代の基礎をなす現代哲学や現代数学の考えそのものだからです。現代哲学の構造主義やポスト構造主義や現代数学の形式主義や公理主義、無定義語の概念は仏教の空と中観と同じものです。仏教、あるいはあらゆる仏教宗派の最小公約数である空と中観の概念を理解すれば現代哲学や現代数学の数学基礎論が理解できます。仏教を理解するということは実用的な事なのです。  日本はせっかく世界で2つしかない大乗仏教国の1つなのですから是非「空」と「中観」を理解して仏教を究めましょう。 第1章 仏教とは何か  仏教とは仏陀になるための教えです。それに関係しないことは二次的で恣意的なことです。殺生をしないとか、出家するとか、頭を丸めるとか、数珠をもってお経をあげるとか、線香を焚くとか、そういったことは仏教の本質には直接関係はありません。仏教の本質は仏陀になることです。仏陀になることを悟るとか解脱するとかいいます。それでは仏陀になるとはどういうことでしょう。結論から言うと空と中観の概念を理解し納得し身につけることです。「解脱」という言葉はいかにも怪しげです。「仏陀」とは覚醒した者という意味でこれも誤解を受けやすい言葉です。オカルト的なにおいがあり実際新興宗教でもそのように使われました。「解脱すると人間を超えた究極の存在になる」「特殊な精神状態に達して特殊な能力を身につける」などです。実際には解脱という言葉は「輪廻転生から解放される、脱する、輪廻転生をしなくて済む存在になる」という意味ですが、実は古代からなされてきたこの解釈からして誤解です。いかにお釈迦様の悟ったことが正しく伝わらなかったかの典型例とも言えます。  仏教の教典は三蔵と言われ経蔵、律蔵、論蔵からなります。ドラゴンボールのもとになった西遊記という小説では中国からインドへ仏教文書を求めに三蔵法師玄奘というお坊様がサルの孫悟空を従えて旅に出ますが三蔵法師とは時の中国皇帝によってつけられた「三蔵を求めに行くもの」という意味です。経とはお釈迦様の言行の記録、律とは教団や教徒の戒律、論蔵とは仏教徒が行ったお釈迦様の教えの解釈です。  そもそもお釈迦様は苦行の後菩提樹の下でお悟りになった時に満足して死んでしまおうとなさいましたが、思い直して自分の悟った内容を世に伝えようとなさいました。  ここから悟った人には生きていようが生きていまいがどうでもよかったことが分かります。つまり悟りの内容は世俗の生き方とは関係がないのです。そもそもお釈迦様は悟っていようがいまいが元々厭世的な性格の方でした。  しかし教えを世の中に広め伝えていこうと考えれば俗世間的な活動が必要です。そもそも教える弟子や教徒を作らなければいけません。また教える内容をまとめて、さらに教え方も考えなければいけません。必然的に世俗的な組織化、教団作りが必要です。維持するためにはコストも労力も必要でしょうし援助者も必要です。組織ですから教えとは直接関係ない教団内のルールを作らなければいけません。経営者にならなければいけないわけです。世の中往々として正論(この場合悟りの内容)だけではすみません。事務、雑務が必要でしかも教えの本質を伝えることよりもそういった実務が仕事の大半を占め煩わされことが往々にありますがお釈迦様も例外ではなかったかもしれません。  そうして35歳で悟ってから80歳までの45年間伝道を続けたわけですが、そこまでしても弟子は悟ったか? 教えを正しく後世に伝えられたか? また釈迦自身が講義内容を適切にまとめられたか? などはっきりしません。  お釈迦様の時代の仏教を原始仏教といいます。お釈迦様が入滅したのち、仏典結集や根本分裂、枝葉分裂などの時代を部派仏教と言います。古い時代の記録が残っていると思われるインドではイスラム教徒が、チベットでは中国が文化大革命で破壊したと思われ、スリランカなど南伝仏教系の記録は意図的な破壊はされていないと思いますが古い時代の事なので確たることは分かりません。  その後インドでナーガールジュナが空論と中観論という理論を確立し大乗仏教が確立します。空と中観の概念は釈迦の悟った因縁生起や中道と同じものと思われますが確かなことは分かりません。インドから南にスリランカ、東南アジアなどに広がった南伝仏教である上座部仏教がどのように発展したのか詳細は分かりません。日本に伝わったのはチベットやシルクロードなどから中国へ伝わった北伝の大乗仏教ですので本書では仏教として大乗仏教を指すものとします。  多分、空と中観を理解して悟った人は歴史上、有名、無名を問わず存在していたと思われますが、全く悟った人がいなかった時代もあったかもしれませんし、悟った人が複数出ていた時期があったかもしれません。天台宗の中興の祖であり中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗は三諦論を唱えました。これはナーガールジュナの空論、中観論と同じものですし、龍樹をさらに洗練させたものと言えるかもしれません。本邦の日蓮は三諦論と法華経に帰れといいました。これは日蓮が三諦論を理解していた可能性を示唆します。  空や中観の概念に対して他の仏教の諸概念は空や中観と矛盾しなければ何でも構わないとさえ言ってもいいかもしれません。  では空と中を勉強しましょう。 第2章「空」は難しい、「中観」はかんたん  中観論は実は簡単です。中観というのは現代的に言えば相対主義です。中立に観る、独立に観るというのが現代的な言い方になるでしょう。何を独立にみるかというと空論と並ぶ「戯論」を中論とは独立に観るということです。中間は中道とも中庸とも異なる概念です。お釈迦様の中道はおそらく本来は中観と同じだったと思いますがその様な概念としては残念ながら伝わっていません。中観とは「空論と戯論を独立な理論と考えよ」というものです。空論が成り立って戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるし、空論が成り立たなくても戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるという意味です。言い換えると空論が成り立つかどうかと戯論が成り立つかどうかは無関係と言う意味です。中の反対は極端でしょう。空論は肯定するが戯論は否定する、あるいは空論は否定するが戯論は否定するという極論に走るなということです。一方の極、一方の端にだけ立ち他方の極、他方の端を否定することを背反と言います。現代でもそうですが“独立”の概念と“背反”の概念は関係しつつも異なるものですが混同することがあります。これは理系では「独立」と「背反」という概念は数学では必ず習いますが、数学を勉強していない文系の場合には全然知らない、あるいは曖昧にしか理解していない事があるためです。  仏教はあくまで知的な世界であり思考による理解が大切であり、情緒によるなんとなくわかっているつもりは全く必要ありません。 ですから中観論は簡単です。また戯論も簡単です。  問題は空論です。これは理解するのが簡単とは言えませんでした。現代は文明が発達し空を理解するための例えがたくさんあります。お釈迦様の時代には文物が貧弱であり空を説明するために例えられる比喩が貧弱でした。お釈迦様も大変苦労なさったでしょう。  空の理解が難しい理由のもう一つが空を理解しなくても普通に生きていける事です。  生きるため、幸福になるためには空の理解は必要ない人は多いでしょう。  お釈迦様の様な求道者は別として求めたいとも思わないかもしれません。お釈迦様は特殊な性格のお方です。お釈迦様は王位継承者でしたから物質的には豊かで恵まれていました。それでも抽象的な真理を追究しないではいられなかった知的な性格の持ち主でした。生老病死を悲観し苦から逃れるために王子の地位を捨て出家したと伝えられますが、一方で圧倒的に知的な人物であったと思われます。真理を求めずにはいられなかったのでしょう。好奇心は人間の意欲を生じさせるものの1つです。では空について次章で説明します。 第3章 空とは  空は無とは違います。無の反対は有でしょう。空の反対は実と考えてみましょう。ブドウの実で例えると空はブドウの皮、実はブドウの実です。別の例えをしてみましょう。家で例えると空は空き家です。実は住民が済んで家具もあり生活している家です。また人間で例えてみましょう。空とは中身のない薄っぺらい表面主義的で皮相な人間です。稼ぎも少なく解消なしで知能も低く身体能力が低くて運動も出来ない、また倫理感も意志も生きる目的もない、しかし自分の快楽を求め苦痛を逃れるため表面をきれいにし着飾り頭が良いふりをし内容があるように見せかけるかっこつけ男を考えてみましょう。娘が結婚相手としてそんな男を連れてきたらお父さんが起こるのは必須です。またその男の見せかけに騙されて政治家になったり上司に気に入られて出世したりしたら嫉妬したり嫌ったりする人もいるでしょう。「実(じつ)のない男(ひと)」という表現がありました。しかし見た目とイメージがよく人の受けがよく人気も評判もよいです。でも何もできない。  その反対が中身のある男です。昔は「実のある人」という表現がありました。その人が中身はあっても見かけも人からの評価も全く興味がなく気にしない人だったらどうでしょう。科学なり数学なり思想なり芸術なりスポーツなり職人なりで何か超一流の能力があります。しかし見かけをきにせずぼろぼろの恰好で、整容保清がひどく風呂に入らず垢くさい異臭がして不潔で汚い。神も切らず服も着た切り雀です。間違いのない能力がありその道では誰もが認める超一流で他の追随を許しません。でもそれを表面に出すことに興味がなく身の回りの人は変人としてどんなにすごい人かわからず生きているような人がいつの時代にも世にもいます。  空を説明するためにその反対を実として3つの極端な例で空のイメージを例示しました。

2020年12月19日土曜日

「やさしい現代哲学(完成版)」

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2020年12月17日木曜日

やさしい現代哲学202012170401

§8.イデオロギーとメタイデオロギー論の途中。 これを書き上げて、§9.をまとめとする。 専門用語を使わないことに比較的成功しているのではないだろうか。 通俗的な論法しかおそらく使っていないはず。 字数29,701字。 難しく書くチャレンジは退屈なので、自作はさらに簡単か、 まあ別の切り口で書いてみよう。 やさしい現代哲学 まえがき  現代哲学は難しそうに思われがちです。でもコツをつかめば誰にでも理解できます。コツをつかむにはきっかけが必要です。ダイヤモンドは世界一固いと思われています。しかしダイヤモンドをある方向からハンマーでたたくと簡単に砕けてしまいます。これはダイヤモンドは引っ掻いて傷がつきにくいという意味では確かに世界一固いのですが、劈開と言ってある方向から力をかけると簡単に割れてしまう面を持っているからです。  物事を理解することもダイヤモンドを砕くことに似ています。問題はどのような切り口からアプローチするかで難易度は簡単に変わります。ダイヤモンドをハンマーで叩く面や角度が分かればダイヤモンドは簡単に割れます。  何かを理解する時にはきっかけがあります。きっかけとは文字通り「切りかけ」がなまったものであり、何かを理解するというのは何かを切断するようなものです。切断するためには「切りかけ」なければいけませんが切りかけ方が悪いと切れるものも切れません。つまり簡単なものも理解できません。でも切り方が分かれば切れるのです。  2600年、古代インドでお釈迦様は仏教を作りお広めになり全アジアに大きな影響を与えました。東洋文化は仏教を基底としています。教えを説明するのに相手によって説法の仕方を変えました。後の世の人はお釈迦様が教えを説いた時期と説いた相手により経典を分類していますが愛手によって説明の仕方を変える事を方便と言いました。お釈迦様の教えは現代哲学と同じものと言われています。  本書では通俗的な例えを使って現代哲学をイメージできる様にしました。著者は4人の子供がいて子供たちに勉強を教えています。小中高の勉強を振り返ってみると大学で国語数学理科社会の教科をより深く(基礎から)より広く(発展させて)勉強した人から見ればほとんど嘘を教えているようなものです。基礎を説明もなく暗記させますし複雑にしないため大切な部分を省きます。結果として単純で解りやすいものがのこります。それはもう学問の原型を残さず別の形に変わっています。しかしそれでいいのです。子供の発達とはそういうものです。まず数を覚えさせ計算を覚えさせます。それなしに数とは何か、計算とは何かを教えるのは有害でしかありません。そもそも数や計算が何かと言うより大学ではそれを作って定義することから始めます。数や計算を知らずにその作り方から説明しても子どもには理解できず、かといって数や計算のイメージを持つ事も出来ず、何もできない子供になり不幸な人生を送るでしょう。大切なのは順番です。  現代哲学も順番が大切です。順番が大切ですがどういう順番がいいかは人それぞれです。それはお釈迦様の方便と一緒です。本書の切り口は現代哲学のイメージを作ることです。なぜそうなのかの説明は二次的なものとして結論を示します。前提として現代哲学のイメージを持っていない人に説明から始めるのではなく現代哲学の形を示します。現代社会は現代哲学神話的な社会ですので勘がいい人はそれだけで何かを悟る人もいるでしょう。ただダイヤモンドの専門家でもない人がたまたまダイヤモンドをハンマーで叩いてダイヤが割れたとしてもただの偶然かもしれません。しかしダイヤモンドの専門家に調べてもらって正しい方向から正しくハンマーを振り下ろせば割ることが出来るでしょう。現代哲学と言うダイヤモンドもそれと同じです。  仏教の核心は大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論、それをまとめると天台宗の中興の祖天台智顗の三諦論でそれを基本に東洋思想と東洋社会は作られました。それと同じように現代思想も、そして現代の社会も科学技術も現代哲学から作られています。  地球の大部分、70%以上を形成するのはマントルであり、マントルはかんらん岩でできています。そのマントルの中で作られるのがダイヤモンドです。ダイヤモンドは一番固くて傷つきにくいうえに屈折率も一番高いので一番輝く宝石であり「宝石の王様」と言われています。  現代哲学もマントルにおけるダイヤモンドの様に全ての知の結晶です。現代以前の全ての知の集大成から生じてカットして磨いたダイヤモンドが光を全ての方向に放つようにそこから放射して現代の全て思想、科学、技術を作る知の原石です。  本書が人類が到達した知の深層にたどり着くための道しるべになって多くの人が現代哲学を分かったと感じられるように祈り本書を執筆します。 §1. もう考えるのはやめよう!  「我考える、ゆえに我あり」「人間は考える葦である」、デカルトとパスカルの言葉です。意味はともかく人間は考えるものだということを言っています。  好奇心のおもむくところ、知りたいと思う心があるとき人は何かを考えます。考えようと望まなくても考えていると自分で意識しなくても人は何かを考えています。その「何か」は広範囲におよび、人が考えられる限りの全ての領域に網羅するようです。  人が考える事の中で究極のものと考えられたのが「真理」、とか「法則」などと呼ばれるものです。正しくて確かで全てのことを説明してくれる知の到達点です。「真理」や「法則」が分かれば全ての知りたいことが分かります。知りたいことの説明もつきます。間違っていないと主張できます。  「真理」や「法則」は宗教や哲学の専売特許でしたが途中から自然科学が参入しました。哲学は人文科学で研究されるようになります。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では「宗教」は「心理」や「法則」を知っているのは全知全能の神のみであると考えます。神は正しく全てを知っています。そもそも全ては神がつくったものです。議論の余地はありません。  哲学は「考える」ことによって「真理」や「法則」を研究します。その結論をまとめたものが現代哲学です。  現代哲学の結論は「もう十分に考えた。これ以上考えても仕方がない。もう考えるのは止めよう」というものです。この場合「考える」とは「探求する」ということです。  哲学が探求する「究極の真理」は何千年も天才から普通の人まで膨大な数の人類が追求してきたことです。そのため議論が出尽くしてしまった、と見なされるようになりました。 議会や会議で例えてみましょう。例えば古代から現代までの人類の天才たちが集まって会議をしたと考えます。その場で「真理」とは何か「「これ以上議論しても仕方がない」という感じです。議会や企業の会議で言えば「議論は出尽くした。決を採ろう」となります。学術的な議論の場合は決を採る必要はありません。 それでは会議や議会はムダかというとそうではありません。有益な点があります。持っている議論の材料を出し尽くすことが出来るかもしれません。また違いを知ることが出来るかもしれません。そして「ここまでは合意出来る」という共通点を見つけることが出来るかもしれません。つまり議題に対して「全会一致の結論が出る」までの有益性はないにせよ、「ここまでは全員が賛成できる」という部分的な合意は出来るかもしれません。合意できる全員の一致点を明確にすることは一つの情報になります。会議や議会が全く無駄なものに終わるか有益かどうかはケースバイケースです。哲学の場合は一致点を見出すことができました。 哲学が探求してきた「真理」や「法則」についての一致点をまとめて表現したものが現代哲学です。現代哲学は「これ以上考えても仕方がない」かどうかについて明確に判定します。同時に「全員一致の結論が出る」部分についても明確に判定しています。別の面から見ると哲学という学問の最低限の常識を示すことに成功しています。 その常識は何か。哲学では「有無を問う」「ある場合にはそれがどんなものかを問う」ことが問題になります。 哲学の最終的な答えは全員が合意できる「真理」や「法則」が有るか無いかは分からないというものです。そして例えそれが有ったとしてもそれがどういうものかは分からないというものです。  ここから現代哲学の1つ目の結論が導き出されます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。  これが現代哲学の1つ目の結論です。  次のセクションで2つ目の結論を示しましょう。 §2. これからは作っていこう!  §1の結論について別の見方をしてみましょう。  やはり人類の天才たちの会議を例に考えてみましょう。 「有無」「何か」「どういったものか」という問いをするとき、我々は既にある何かを念頭に置いています。§1で現代哲学が出した結論は「そういう問いへの答えは分からないので考えても仕方がない」というものです。真理や法則のようなものが「有る」「無い」「何々とは○○というものである」「どのようなものかというと○○というものである」と提案しても全員の意見の一致は得られません。もし一致があるとすると全員が棄権する場合です。もし全員棄権全会一致で何らかの合意が得られてもそれは正しさや確かさの保証にはなりません。多数決は決めるためのもので正しさや確かさを確認するためのものではありません。多数決では分からなくても決める事は出来ます。何しろ多数「決」と言うくらいです。これは悲観的な結論に見えるかもしれません。こんな結論受け入れられないと思う人もいるかもしれません。 しかし分かることが出来ずに決めることしかできないと書くと否定的に聞こえますが、逆に言えばもう分かろうとする必要がなく、決めることが出来るので決めることに専念すればよいと考えてみるとどうでしょう?今まで分かることに気を取られ過ぎて「決める」ことについては考えてこなかったとも考えられます。分からないことは考えずに決めることに全てを費やし集中的に考えてみます。すると決めることで新たな世界が開かれることが分かります。 物事はコインのようなもので表と裏は切り離せません。表裏をいい面と悪い面としてみましょう。コインが表裏一体のごとく物事のいい面も悪い面も同じものの別の側面に過ぎません。いい面があるゆえに悪い面があり、悪い面があるゆえに良い面があります。悪い面をなくすといい面もなくなり、いい面をなくすと悪い面がなくなります。ピンチの後にはチャンスありと言います。失敗は成功の基とも言います。    会議の反対は議会です。議会は法律を作るところですがもっと広く言うとルールを作るところです。過去から現在までの人類の天才たちを集めて議論しても「真理」や「法則」があるのかどうか、あるならどんなものなのか分からないというのが§1. の結論でした。何が確かか正しいか分からないことが分かったのだからもう考えるのをやめて自分たちで確かで正しいものを決めるというのが現代哲学の2つ目の結論です。  本当に必要なのか分からない会議に参加させられて不毛な議論にうんざりした経験のある方は多いでしょう。それは法律を作る議会のようなものです。§1では考えるのをやめようという結論について書きましたがそれは何も考えなくてもいいということではありません。「正しく確かなものを発見して証明する」ということから「正しく確かなものを作って機能を検証する」ことに考える事が変わっただけです。 この様に前提を替えてみると「正しさ」や「確かさ」などの言葉や概念は根本から見直す必要があります。もし「正しい」とか「確かな」という言葉を使うのであれば現代哲学のやり方で定義しなければいけません。そもそも「正しい」とか「確かな」という言葉や概念は現代哲学では必要ない可能性も出てきます。また「定義」という言葉も掘り下げると現代哲学では定義はするものであってされているものではありません。 そこで現代哲学では決めること、そして決めることを作ることが重要になります。度々議会を例えに使いますが議会で法案を作成し法律を成立させるのに似ています。現代哲学ではアイデアは発見するものではなく発明するものです。何かもうあるものを吟味するのではなく何かまだないものを構築します。 §1.で会議で全会一致の合意ができないものは切り捨てる話をしました。そこから「分からないものは考えない。考えても仕方がないものは考えない」という現代哲学の1つ目の結論を導きました。 しかしここから得られる教訓はこれだけではありません。全会一致できるものがないことが分かっても人間が考える生き物であることに変わりはありません。しかし「真理」や「法則」を発見しその正しさと確かさを保証するために頭を考えてるのはもう止めるというのが現代哲学の結論でした。分からなくても人間は決めることが出来ることも分かりました。そこで導き出る現代哲学の2つ目の結論は「全員一致で合意できない場合には全員一致で合意できることを作ってしまえばいい」というものになります。考えることを分かることではなく作ることに振り替えます。  ここで§2.で説明したことをまとめてみます。これが現代哲学の2つ目の結論です。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 §3. ポスト構造主義  §1.と§2.の結論を並べてみます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 もったいぶって長々しいと分かりにくくなることがあります。ですから最初からはっきりさせると①と②はポスト構造主義と呼ばれる考え方です。「ポスト構造主義」という名称は構造主義の後の思想という意味ですからそこから内容を推測することはできません。①と②をまとめてみると「真理や法則というものは分かるものではない。決めるものである」ということになります。  では何を真理や法則と決めましょう。大きく分けて2通りです。1つ目は自分で決める作ること、2つ目は既にあるものを借りてくることです。  この1つ目の「作る」ことがポスト構造主義の3つ目の特徴になります。この特徴と2つ目の「借りてくる」をまとめて、 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  これが現代哲学の3つ目の結論になります。  現代哲学はポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の3つの考え方から成り立っています。特に①②③はポスト構造主義の考え方になります。素朴実在論と構造主義については後の章で取り上げます。  §1.と§2.では人類の歴史上の天才たちの会議と議会の例えを使ってきましたので§3.でもその例えを使って考えてみましょう。  天才たちは真理や法則の候補をどんどん提案します。それを議論してどれが本当の真理か法則かを決めていきます。  心理の候補となるのは宗教た人類が目下構築中の自然科学、色々な哲学者が作った哲学  人類の歴史上の天才たちが集まってこれらの真理や法則候補を吟味します。  心理や法則の候補として有力なものは法案として議会に挙げて議場で議論し法律として採択します。  この天才たちの議会と懐疑に①を適用してみます。すると― どんなに話し合ってもどれが真理か法則かは分からないので議論しても仕方がないということになります。  議論しても仕方がないとはどの提案も真理・法則であるという結論は出せないということです。これは天才たちの頭が悪いせいではなくもともとそういうものである、と言うのが①が言っていることです。  これで終わらないのが②です。真理や法則はそもそも決めるものであって決まっているものではない、とイメージしてもらえばいいでしょう。 ①②を合わせるとあるのかどうか、あるならばどのようなものか我々には分からないが決めることはできる、ということを言っています。意志と決断の問題と言っているのです。 会議と議会の例で考えてみましょう。会議や議会では議論が行われます。議論をすることは考えることや分かることと一緒です。会議は議論するだけの場合もあるが決を採る(採決)、議決する場合があります。これは何かを決めることです。議会でいえば法案の議論から決を採り法律を制定することになります。 何かを決めることは決めたことが良いか悪いかや、正しいか間違っているかとは別の問題です。どんなに天才が話し合って決めた事でも間違っている場合もあります。実行したらとんでもないことになることを会議で決めてしまう場合もあるでしょう。議会であれば法治国家が機能していればとんでもない悪法でも施行されてしまいます。そもそも正しいか間違っているか、良いか悪いかが分かっていれば会議や議会など必要ないのかもしれません。正しい結論、良い結論が分かっているのにそれを実施させないために会議や議会を行い、悪い、間違っている結論を会議や議会で決めてしまう人たちもいるかもしれません。 ②は意志や決断が大切であり、人間に出来ることはそれしかないとも言い換えることが出来ます。議会や会議で決めたから決まったことが正しいとか良いとは言えないのです。決めること自体と決めたことの良否や正誤は別問題ということです。 直接民主制でも間接民主制でも議会制度とは議場を提供し議論するという機能と議決し法を制定するという異なる2つの機能を持つと考えます。考え、判断・決断し、行動し、行動の結果を受け入れる(責任を取る、尻(ケツ)をとる)ことを主体性とすると主体性を持った人が議会を形成するべきであるというのが自由主義的民主主義の考え方です。選挙権、被選挙権を持つ、議会の決定に関わる人は主体性を持った人で構成するのが理想です。極論をするとこの場合、主体性を持っても明らかに最良で最善な結論があるにもかかわらずそれを理解できない人が多ければ議会では最悪な決議がなされてしまうこともあり得ます。それでも②は人間には決める能力があると結論しています。たとえそれが最悪な選択肢であってでもです。  人間が決めることが出来るということは、決めることがどんな考えに基づいているとしても、決断(や判断)し、行動し、結果を残すことが出来るということです。  ここで①に返りましょう。人間は心理や法則について考えても有無、良否、正誤について分からないというものでした。そういったことを考えても仕方がありません。真理や法則にが分からないのであれば、分かるような真理や法則を作るというのが現代哲学の3つ目の結論です。  「正しい」や「確か」という言葉の意味を定義し、定義に合うように真理や法則を作ることに方向転換します。そうすると「真理」や「法則」は作られたものになります。これは決めた人々とって定義された「正しさ」「確かさ」を満たされていればよいのであって、これを決めた人々にとってだけの真理や法則です。そう決めることに同意しない人々にとっては正しくも確かでもありません。ですから昔ながらの意味の「真理」や「法則」とは異なるものと見た方が良いでしょう。異なるものには別の名称を付けた方が良いので「真理」の代わりに「公理」という言葉を、「法則」の代わりに「公理系における定理」という言葉を使ってみます。みんなにとっての真ではなく決めた人々にとってだけ正しく確かであればいいのですから「真」ではなく「公」という字に代えてみます。公理は人工的なものです。別にそれを公理と決めたくなければ認めなくても構いません。他人が公理と認めないのも自由ですし、自分が状況に応じて公理と認めたり認めなかったりしても構いません。つまり誰かに承認される必要はないですし、いつでもどこでも一貫してそれを公理と認め続けなければならないというものでもありません。約束事でありルールですから深遠な神学や哲学と言うよりはゲームやスポーツのようなものです。自然言語よりはプログラミングや通信の規格のようなものです。探求する科学より想像する工学、調査するノンフィクションより想像するフィクションのようなものです。  「決める」場合に何を決めるかについて上記は数学や自然科学の場合です。他に宗教や天才哲学者の哲学について考えてみます。  宗教の例としてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを考えてみましょう。これらの宗教は唯一の神がいて神は絶対で万能で全てを作り何もかも知っている存在です。人間は不完全な存在で神の様にはなれません。この場合人間が決めることはそのような神を信じるか信じないかです。また神の言葉が描いているとされる聖書を信じるか信じないかです。まとめると「神と聖書を信仰する」ことを決めるか決めないかです。「信じると決める」か「信じると決めない」かです。後者の「信じると決めない」ということは「信じないと決める」ことも含みますが、「信仰するかどうかを決めることをしない、あるいは保留する」や「信仰するかどうかに興味がない、どうでもいい、問題にする必要を認めない」などの場合を含んでいます。現代哲学のスタンスでは宗教に限らず何かを信じるか信じないかどうでもいいから問題にしないかを決める、ということに言い換えられます。  現代哲学では決めることが大切なので、信じる人は信じると決めたらその人にとてってはそれが真理と決めることになります。ただ注意点として聖書や神を真理と考えても、他にも真理がある可能性もあり、それも同時に信じることも出来るかもしれません。他の真理が神や聖書と矛盾していても人間は矛盾したことを信じられる性質を持っています。他の例として神も清書も否定すると決めるのも好例で、これは無神論になります。神や聖書が真理かどうか分からないと積極的に決めた場合は不可知論と言います。その他「神や聖書や心理や法則はどうでもいいと決める」立場もありこれはお釈迦様の考え方です。原始仏教の経典に簡単に書くと「そんなこと考えるよりも修行しろ」とお釈迦様が仰られたとの記載があります。  では宗教ではなく過去の色々な哲学者の哲学について考えてみましょう。哲学は真理や法則を探求しようとする姿勢がありました。そして哲学者によって考えられたのが色々な理論や仮説です。よくできた理論や仮説についてはそれを真理や法則としてしまっていいのではないかと考える人、実際に真理や法則と考えた人もいたようです。後者は何かの「理論や仮説を真理と信じる」と決めたことになります。無意識の決心かもしれませんが人間は沢山の無意識の決心がある、言い換えると「人間は知らない間に何かを信じているが、自分ではそれに気が付いていない場合がある」ということになります。  真理や法則を「決める」ことが必要であるなら何を正しく確かなことと決めるかの選択になります。そのため科学、宗教、哲学などの例を見てきました。  科学の場合は理論や観察・観測を正しいものと決めます。この場合理論は誰かが作ったものです。発案者にとっては自分で作ったものを決める対象に出来ますが、それ以外の人はその発案者の発明を借りてきて決める対象にします。  宗教の場合は教義を作った人々が分かるのであれば彼らは自分たちで作ったものを決める対象にしますがそれ以外の人々はそれを借りてきて決める対象にします。  哲学の場合は哲学理論を作った哲学者はそれを決める対象に、それ以外のその哲学理論を決める対象に人々はその理論を借りてきて自分の決める対象にします。  §1.と§2.と§3.の特徴をまとめて再述します。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  そもそも本当は何も正しいもの、確かなものを特定する必要はない可能性もあります。正しいもの、確かなものに執着するのは現代哲学より前の思想の特徴です。  そういう意味では①②③は現代哲学の外から見た現代哲学の見え方です。   次の章でポスト構造主義を簡単にまとめます。その後の章で現代哲学の3本柱のうちの2本(1本はポスト構造主義で3本のうちの大黒柱)を説明します。 §4.ポスト構造主義    いつもの通り結論から書くと「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」です。  前章までで真理、法則、正しいもの、確かなもの、公理、定理、理論、観測・観察、宗教の教義と色々な言い方が出てきました。その候補として上げられるものはひとまとまりの考え方です。これをイデオロギーとここでは呼びましょう。日本語に訳すとイデア+ロゴスですから思想や倫理といえるかもしれません。思想や倫理とは広くは人々の思いなしであり、合理的、論理的なものはごく一部です。「理」とは「璞を磨いて現れる模様」が語源です。模様とは図でありグラフでありもっと言えば絵です。「絵」には正しいとか確かだとかは関係ありません。同じような語源論法を使うと「論」とは「言」と「侖」の会異形成文字で竹簡を集めることで文章や発言のまとまりの事です。「議」とは「言」と「議」を組み合わせた会意形成文字です。「義」は更に「羊」と「我」という二つ文字からできています。原義は神のために捧げる羊を正しく切り分けること」で転じて正しい判断という意味になります。漢字を形成する最小単位を「文」、文を組み合わせて出来る漢字を「字」と言います。「議」は「言」+「羊」+「とは判断するということで「議」とは言葉を使って正しい判断を行うことを表します。理論とは、(1)「絵」を文章にすること、あるいは②「理」と「論」つまり絵と文章を使って表現されるもの、つまり説です。「説」は「言」と「兌」の会異形成で「論理とは2つの意味、一つ目は「論」と「理」、文章と絵を使って表すことあるいは表さ「兌」ははがすの意味でので「説」言葉ではがして中身を出すということです。「論理」とは「論」の理、つまりその論がどのような構図になっているかを示すことです。合理とは「理に合うこと」つまり絵や構図やグラフ、言い換えれば関係性に合っていることを表します。  イデオロギーという言葉は科学や哲学の理論や仮説も指しますが、「生き方のスタイル」「行動のポリシー」など単にその人が個人的な嗜好で決めた正しいだとか確かだとかは関係ない考えや意図なども含みます。普通、イデオロギーというのは現実と関係します。例えば物理学の理論は現実の観測結果を矛盾なく説明するためのものです。宗教の教義はその人の現実の言動や行動を戒律に合うようにさせるでしょう。個人的なスタイルやポリシーも同様で現実の何かから影響を受けて形成され、形成されたスタイルやポリシーに従って現実を生きます。大まかに前半は理由を説明するためのもの、問題に答えを与える説明体系であり、後半は思考、感情、意志、行動などにおける実践方法を示したものです。    最初の「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」というテーマに戻りましょう。言い換えると「ポスト構造主義とはイデオロギーに関する理論である」ということになります。  イデオロギーの研究は他にもあります。そしてイデオロギーに関する色々な理論や説があります。ポスト構造主義もその一つです。イデオロギーに関するイデオロギーをメタイデオロギーと呼びましょう。ポスト構造主義はメタイデオロギーです。メタイデオロギーに対して普通のイデオロギーは現実と関係があるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。これはmetaphysics、physicsと呼ばれる形而上学や形而下学と似ている様に見えますが特に関係がないので誤解がないよう注意として挙げておきます。  ポスト構造主義のイメージを膨らますための例示をしていきます。 メタイデオロギーであるポスト構造主義の特徴として「どれか特定のイデオロギーを特別視することはない」というものがあります。これをイデオロギーについての相対主義と呼びます。相対主義以外にはどれかどれかのイデオロギー絶対視するイデオロギーの絶対主義というものがあります。これは特定のイデオロギーが正しく確かであるとする考え方です。イデオロギーが理論や仮説であれば真理や正しく確かな法則に格上げします。生き方に関するイデオロギーが正しく確かであるということであれば「こう考えこう行動しなければいけない」「こう考えてこう神津してはいけない」という風に生き方を強制します。ポスト構造主義はある特定のイデオロギーの絶対化を行わないため、現代哲学を勉強してマスターし現代哲的な生き方をしようと決めた場合、どれか特定のイデオロギーに盲従することはなくなります。現代哲学ではどれか特定のイデオロギーを推奨することも排除することもしません。イデオロギーはみな平等です。特にどれが正しくどれが確かだという見方をしません。そんなことは考えても仕方がないことだと考えます。その代わりにその時々、場所や状況に応じて自分の従うイデオロギーを自分で決めます。その状況に合ったイデオロギーがなければ作り、あれば借りてくればよい訳です。適当なイデオロギーが見つからず選択できなければその様な知的な作業を行わず気の向くままに考え行動することもあります。 現代哲学ではどのイデオロギーを選択してそのルールに従って行動するかは完全に自由です。損益やコストパフォーマンスを高めるなどの条件があればそれに適したイデオロギーを選べばいいですし、特に条件がなければ気まぐれに、あるいは直感で、あるいは嗜好でイデオロギーを選択する、あるいはイデオロギーの選択ということを考えずなすがまま、成るようになるよう、出たとこ勝負で考え行動してもいいでしょう。 どのイデオロギーを選択するか、あるいは選択しないかは自由です。複数のイデオロギーを選択するのもあり得ますし、選択したイデオロギー同士が矛盾していても矛盾する両方のイデオロギーを同時に選択することも出来ます。このようにポスト構造主義のイデオロギーの選択の自由をメタ自由主義と呼びましょう。「選択」という言葉を使っていますが、これは前のセクションまでの「決める」と同じ意味です。ただの自由主義ではなくメタ自由主義と呼ぶのはこれがやはり一般的に言われる自由主義とは異なるからです。一般の自由主義とは世俗のイデオロギーの自由主義を指します。具体的な世俗のイデオロギーは現実と関わるため自由に現実的な制限があります。メタ自由主義は現実と関係ない観念としての自由主義であるため現実の制約がありません。怖い程に自由です。この現代哲学の自遊空間には世俗的イデオロギーの集合があってどれをどの組み合わせで選ぶかが自由です。そこであるイデオロギーを選択するかしないかは選択肢になります。採決し採択した選択肢を採用するわけです。 現代哲学をマスターするということはこれらを意識し自覚的に実行できる能力を持つということです。 ポスト構造主義では何でも決めていい、選択してもいいと書きました。現代哲学に他に必要なものはメタ認知と自覚です。 メタ認知とは自分が思考上、イデオロギーの採用を行っていることを自覚している状態です。客観的、あるいは俯瞰的な目で自分と自遊空間、選択肢、選択肢を決める作業を行いそれを自覚するということです。 「随処に主となれ」これは仏教の言葉です。いつでもどこでも自分が主体となりなさいと言う意味です。「いつでもどこでも自分が主体となりなさい」と言う意味です。現代より前の真理探究は㋐「何かによって何かが決まっている」、㋑「何かが何かを決めている」という意識があり、「それを探求し証明するのが人間だ」という形式から成り立っています。具体例でいうと㋐の例は「神が世界の全てを決めている」、㋑の例は「自然の究極の法則があり、それが世界の全てを決めている」などです。 この形式を別の視点で見ると主たる何かがあり、自分はそれに対して従の立場にあるという姿勢が隠れています。現代哲学はこれの逆の立場を取ります。つまり自分が主で自分が決める何かは従となるということです。従になる「何か」とは現代哲学でははイデオロギーを指します。現代哲学から見れば、現代哲学より前の「イデオロギーがあって人間がそれに従う」のではなく「自分がイデオロギーを従える」という見方になります。より詳しく言うと「必要であれば自分がイデオロギーを選んでそのイデオロギーに従うと決める」ということになります。言い換えると自分がどのイデオロギーを選ぶのか決めます。 ここでもう1つ強調したいのは「必ずしも人間は従うイデオロギーを決める必要がない」ということです。イデオロギーを決めるということは故意の行動になりますが、別に人間はわざわざイデオロギーを決めなくてもよい場合があるということです。「良い場合がある」どころか「決めなくてもよい場合の方が多い」と言ってもいいかもしれません。何らかの理由でイデオロギーを決めようと思った場合にのみイデオロギーを選べばいいわけであって、決めようと思わない、あるいは決めるのを避ける場合にはイデオロギーを決めないことが選択肢になります。この「イデオロギーを決めない」ことも現代哲学の大切な考え方です。 イデオロギーを決めるか決めないかは任意で、決めない方が自分にとって幸福な場合や不幸を避けれる場合もありますし、決めたことで不幸になったり幸福を失う可能性があります。ですから「イデオロギーを決めない」選択も忘れないようにしましょう。 では「自分が従う立場になる、自分より上の主に当たるものはないのか?」という問いを立ててみましょう。これに対する現代哲学の答えは§1.の①、「分からないから考えても仕方がない」になります。 ここまで一口にイデオロギーと言ってきましたがイデオロギーについてもっと具体的に考えてみましょう。イデオロギーを決めるということはそのイデオロギーに従った思考や行動をするということになります。さてイデオロギーをどうやって見つけたらいいでしょう? それは§3.の③「人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る」を適用します。つまり新たなイデオロギーを作るか、すでに知っているイデオロギーを借りてくるのです。既にあるイデオロギーを借りてくる場合のイデオロギーは自分が前に作ったものであったり、他の誰かが作ったものであったり、出所不明なものであったりします。何であってもそれを自分のイデオロギーにしようと思えばすれば良い訳です。 では自分が決めたいと選びたいと思うイデオロギーが思いつかない場合はどうしたらいいでしょう? まあなんでもそうですが過去の勉強は大切でいろんなイデオロギーを勉強して知っていなければ何かの理由で何かのイデオロギーを選びたい場合でも適当なイデオロギーが思いつかないかもしれません。イデオロギーを決めたい理由が出来てからイデオロギーを探すのが1つの方法ですが、見つからない場合には§3.③に含まれているもう一つのルール、「作ることが出来る」から自分で作るのが解決法になります。③は何らかのイデオロギーを作れることを保証しています。現に今あるイデオロギーのうち、出所が確かなものはたくさんあります。沢山のイデオロギーが昔の人々によって作られましたし、今もこれからも作られていきます。「イデオロギーを作る」ための難点はイデオロギーを作る能力が必要なことです。この場合の能力には「時間」や「労力」を含めることにします。“能力”ですので過去の勉強や教養がとても大切で時に歳を取ってから「若いうちに勉強しとけばよかった」とか若い人に「若いうちにべんきょうしとけ」という年配者の存在からこれは分かります。とにかく借りてくるイデオロギーが見つからないけれどもイデオロギーを決めたいと思う人のもう一つの方法は「自分でイデオロギーを作ること」になります。 §4.以降は「イデオロギーの借り方と作り方」がテーマになります。そのために「素朴実在論」と「構造主義」の勉強をします。ポスト構造主義が現代哲学の骨格をなすものであるとすれば、「素朴実在論」と「構造主義」はイデオロギーを分析したり理解したりするのに必要です。全てのイデオロギーはこのどちらか、あるいは両方で作られて行っても過言ではありません。「素朴実在論」と「構造主義」を学ぶことでイデオロギーの分類が出来ますし自分で作る時の参考になるでしょう。 §4.メタイデオロギー論からイデオロギー論へ   §3.まではポスト構造主義とは何かについて書きました。 ポスト構造主義と構造主義と素朴実在論は現代思想の三本柱ですが中でもポスト構造主義が支柱です。ポスト構造主義が分かれば現代哲学は分かったと言ってもいいかもしれません。ポスト構造主義はイデオロギーに関する理論です。ポスト構造主義が分かれば現代思想がイデオロギーをどう見ているかについて納得がいくでしょう。イデオロギーに対する姿勢も分かります。ポスト構造主義が分かっていれば現代哲学についてある程度分かっていると誇っていいでしょう。構造主義や素朴実在論の知識が曖昧でもです。人間はイデオロギーの操り人形ではありません。人形遣いです。イデオロギーが人形遣いで人間が人形であるわけではありません。  人形であること、人形遣いであることはどちらがいいとか悪いとかは言えず、どちらにもいい面、悪い面があるかもしれません。ですからイデオロギーが主で自分が従である状態を単に受け入れる方が幸福である場合もあるでしょう。しかし人形遣いになるなら人形の操り方とこの場合操る道具の人形について勉強しておくに越したことはありません。人形遣いの仕事は人形を操ることですが、§3.の③にイデオロギーを作るこが出来る事を書きました。これら人形遣いによる人形の研究、つまり現代哲学におけるイデオロギーの研究とイデオロギーの使い方、イデオロギーの作り方について理解を深めることに相当します。現代哲学を指針に生きることは主となることに相当します。  ポスト構造主義が分かれば現代哲学の半分は分かったと言ってもいいと思います。 これは現代哲学の習得の必要条件で場合によってはポスト構造主義のマスターだけでもいいかもしれません。  しかしポスト構造主義のマスターではなく現代哲学のマスターになろうと思えば残りの2本の柱である素朴構造論と構造主義の理解が必要になります。これを理解すると残りの半分を理解したことになり現代哲学のマスターの必要十分条件を満たすことになります。本書ではまず哲学の歴史の到達点であり総決算であるポスト構造主義のマスターを先に行ってもらうように企図しました。西洋の哲学の歴史を振り返ってみると全てがポスト構造主義に至るための過程であったと総括できます。つまり帰納的にポスト構造主義に収斂(収束)し哲学全ての原理となりました。本書は現代哲学の説明や成り立ちの解説ではなくイメージを持ってもらうことを意図して書かれています。ですので原理となったポスト構造主義から出発して演繹してそこから生じる全ての結論や運用方法を説明するように書かれています。ですが実際の哲学の歴史を見ると素朴実在論がまず暗黙の前提として気付かれぬまま存在し、それを批判する形で構造主義が見出され、その両者を相対化させて両立させる、弁証法と言う方法でいえば止揚させるためにポスト構造主義が生まれました。  素朴実在論と構造主義はどちらもイデオロギーの根底をなすものであり、イデオロギーはそのどちらかから成り立つか、その両方を同時に満たすように成り立つか、場当たり的にその両方をまぜこぜにして作られている場合が殆どです。どちらにも全く関係していないとすれば思考ではなく感情や意欲によって成り立つ神秘主義や本能のままに行動する刹那的な生き方か、思考する間も与えられるまま決断を繰り返さなければいけない切迫したスポーツや戦闘、仕事、生活、芸術等の場面などが挙げられると思います。これは思考をほとんどしない、あるいは出来ない場面で現れるあり方です。本書は哲学の思考を扱う面を重視し、イデオロギー論、メタイデオロギー論を主軸として議論を展開し、知情意のうち知である思考以外の感情や意欲などの情意については簡単に説明します。つまり西洋哲学は素朴実在論、構造主義、ポスト構造主義の順番で始まり発展し終焉しました。  他方で初めから、ポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の全てを兼ね備えて出発したのが仏教です。釈迦から始まり根本分裂、枝葉分裂と何回か混乱しますが大乗仏教の成立にて最初の根本に返ります。これをナーガールジュナ(漢字で龍樹の空論、中観論といいます。また中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗の三諦論(空、戯⦅仮、色ともいう⦆、中の3つの論から成る理論もそれにあたります)しかしその後の歴史はその根本が忘れられたり思い出されたりの繰り返しでした。いわゆる東洋思想は仏教の影響を強く受けているので現代哲学的な要素が繰り返し現れるように見えます。仏教では教えの核心に到達することを悟りとか解脱といい悟った人を仏陀(覚醒者)といいます。おそらく仏教の歴史上有名、無名を問わず悟った人がしばしば現れたのでしょう。  ポスト構造主義については前の三章で説明しました。次章からは素朴実在論と構造主義について説明していきます。 §5.素朴実在論とは何か?  「実在」とは何でしょう? “実際に存在する”を縮めた言葉です。哲学では似た意味の言葉に「実存」というのがあります。「実存」は“現実的存在”の意味です。 「在」は会意形声で「土」+音符「才」であり「才」はイコール「在」と同じで古体は「扗」になります。流れをせき止める板材の象形(又は指示)で「とどまる」の意味になり、流れをせき止め場所を明確に区切ることです。「存」は会意で「才」+「子」から成り立ち、「才」で流れを止めて「子」をあるべき場所に据えるという意味です。  「実存」の「実」の「現実的」とは「現実を受け入れる」「現実を見ろ」と言う場合の意味です。現実を出発点として考えそうなった原因や「人とは何か」「世界とは何か」という本質への問いかけをやめるということです。人と人を取り巻く世界を感じるがままの存在として受け入れそれが何かと問うのではなく、「人と言う存在はどうやって生きるか」「世界と言う現実は人にとってどのような意味を持つのか」と考えるのが実存哲学になります。  一方「実際の存在」である「実在」とは何かが確実に存在しているとする考え方です。何かとは自分が存在していると思っているすべての物が対象になります。実在論とは英語ではリアリズムと訳します。実在論は中世以前はイデアが実在するという理論でした。本書で素朴実在論と言う場合は控えめに言ってイデアでも何でもいいから何かが少なくとも存在するという考え方です。このように謙虚にではなく傲慢に言えば自分が存在していると思っているものは確実に存在するという考え方です。我々が何かを認識する時認識される対象は確かに存在してしかも存在をありのまま正しく認識しているという考え方です。  控えめに言って㋐「あるものが確実に存在すれば我々はそれを正しく認識できる」可能性があると言えるでしょう。あくまでも「控えめに言って」であり断定ではなく「可能性がある」とまでしか言えません。それではそれを逆にして㋑「我々が何かを認識しているから何かに少なくとも何かが存在しているのは間違いないはずだ」と考えるのはどうでしょう。㋐も㋑も成り立っていると考えるのが素朴実在論です。素朴実在論は知能の発達に障害がなければ我々全員が持ち得ることのできる考え方です。素朴実在論は意識して自覚されている場合もあれば、無意識に思い込んでいるだけの場合もあります。簡略化すると㋐′「正しく認識できるので認識できるので確かに存在していると言える」、㋑′「確かに存在しているので正しく認識できる」の両方が成り立っていると考える、あるいは思い込む場合を大雑把に素朴実在論と呼びます。この場合「存在」は知覚できる物体の場合もありますし、想像の中のイメージの場合もあります。  素朴実在論は正しいのかと言うと突っ込みどころがたくさんあります。まず㋐と㋐′を見ると何かを認識できることはその何かが実際に存在している事の根拠となるのか?という疑問が生じます。結論からいうと根拠になりません。現実にないものを幻覚や妄想であると思っているだけかもしれないからです。  次に㋑と㋑′を考えます。仮に存在しているならそれを認識できるか、その認識は正しい認識かという疑問が生じます。やはり結論から言えば例え確かに存在しているものがあったとしても、それを我々が認識できるとは言えないし、認識できてもそれが正しいとは言えない、ということができます。  つまり「何かが存在してそれを認識できる」ということと「何かを認識しているのでそのもととなる存在するものがあるはずだ」はどちらも間違っているとも正しいとも言えません。「確かな存在がある」としてもそれは「正しく認識できる」場合も「正しく認識できない」場合も等しく考えられますし、「何かを正しく認識している」が愛にも「確かなものが存在する」場合も「確かなものは存在しない、あるいは何も存在しない」場合も両方ともあり得ます。  存在の根拠に認識を、認識の根拠に存在をおくことはどちらもできないのです。 これが素朴実在論に対する批判論です。  批判論から説明しましたが素朴実在論とはつまり「何か確実なものがあって人は正しくそれを認識することができる」「何かを認識している時には実際に確かな存在があってそれを正しく認識している」からなる理論です。  この考え方には誰もがピンとくるでしょう。これは誰もが持っている考え方です。それはなぜかというと生まれてから大人になるまでの発達の過程で人間は素朴実在論を身につける様にできています。これは生物学的にも心理学的にも社会学的にも傍証が得られている考え方です。定型的な認知発達における土台をなすものです。素朴実在論的な認知能力を身につけないと子供でも大人でも社会に出てくろうします。これができずにIQが低く出ると知的障害や精神発達遅滞と言われてきました。IQが高い場合には通俗化した精神医学の知識に基づいて「発達障害ではないか?」と疑われてしまいます。  批判した後で持ち上げているようですがある意味では現代哲学の3要素の中ではこれが最も生きていくのに必要な考え方です。発達の過程で子供は素朴実在論を身につけますが、それを邪魔してポスト構造主義や構造主義を無理に教えようとしたらどうなるでしょう?山本七平氏の「日本人とユダヤ人」という本の中に「留学して外国の歩き方を覚えようとしたら身につかず、もともとの歩き方も忘れてしまって這って国に帰った男」の例が出てきます。これは悲惨な状態です。このような状態を社会学ではアノミーといいます。自分の準拠べき規範がなくなってしまった状態です。分かりやすく言うと素朴実在論は嘘です。厳密にいうと素朴実在論の考えたしかできない人は何かに騙され続けて生きていくでしょう。素朴実在論は批判はされても必ず必要です。しかし嘘に騙されずに生きていくためには構造主義を習得しなければいけません。同じ対象に対して素朴実在論と共に必ず構造主義的な見方が立出来ます。逆もそうで、構造主義的に見ている対象を素朴実在論的に見ることも出来ます。  教育においては最初は素朴実在論を前提に子供に教えます。ですから小学校、中学校、高等学校と言えども教わることは全て嘘です。しかし子供に勉強を教えてあげた人は分かると思いますが、人間は最初は素朴実在論的認知しかできません。ですからだましだまし嘘を教えるしかありません。義務教育では嘘しか教えません。しかしそれが嘘でない本当のことを学ぶための階段になります。嘘の階段を上ることでしか嘘でない本当のことを勉強できません。嘘でない本当の勉強は高等教育である大学で学びます。素朴実在論を褒めも批判のしましたが、素朴実在論的な考え方ができないならば例え構造主義やポスト構造主義をマスターしてもそれはそれで欠陥があると考えてください。その場合はイデオロギーについて構造主義でしか考えられない偏った人になってしまっています。構造主義は素朴実在論批判のために作られましたが、ポスト構造主義は素朴実在論を否定し構造主義でしか考えられない人を批判するために作られています。  ここまで構造主義については説明してきませんでしたが次章で構造主義について説明します。 §6.構造主義について  ヘーゲルと言う哲学者が弁証法という考え方を次の様に説明しました。 (*)「正があり、それに対立する反がある。対立する正と反が止揚すると合が生じる」 ちなみにカタカナドイツ語と哲学用語を合わせて使うと「正」とは「テーゼ」と言います。;「テーゼ」は語源はギリシア語で昔の学術用語ではラテン語やギリシア語がよく使われました。「テーゼ」は、「定立」「(初めに)立てられた命題」「正・反・合の、正」「綱領」などの意味です。「反」は「アンチ」、「止揚」は「アウフヘーベン」、「合」が「ジン」と書き換えられ、(*)をカタカナ日本語にすると、 (*′)「テーゼがあり、それに対立するアンチテーゼがある。対立するテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンするとジンテーゼが生じる」となります。  余談になりましたが、(*)は具体的には以下の様に使われます。例えばこの分を「論」という言葉を加えて具体化してみると、 「正論があり、それに対する反論がある。対立する正論と反論が止揚すると(正論と反論を両立させる『新たな統一理論論が生じる』」となります。 (*)は構造主義を説明するのになかなか便利な見方です。(*)を使うと構造主義は、 「素朴実在論があり、それに対立する構造主義がある。対立する素朴実在論と構造主義が止揚するとポスト構造主義が生じる」となります。これは現代哲学の成立の過程を正確に表しています。  「構造主義」は多分現代哲学の中では一番難しい概念かもしれません。お釈迦様は教えを説くのに方便を用いました。聞く人が知らないことを説明するには聞く人が知っていることを引き合いに出してそれと同じことだよと聞いている人の直感的理解を促す方法です。伝えたいことがきく人の知っている何かと同じところがあることを理解すると分からなかったことが途端に分かる場合があります。これが「例」または「比喩」による方便です。お釈迦様が使ったくらいですから大変良い方法ですので我々もこの方法を使いましょう。  また人を納得させる方法の一つに「語源からの説明」があります。その概念になぜそのネーミングを行たかを理解する事で概念の意味を理解する方法です。「民間語源」「通俗語源」と呼ばれているものがあります。由来がはっきり分からない語源や正しくないと分かって語源のことを言います。そのような語源にこじつけて名前の意味を理解する事があります。語源が正しいとは言えないのにその語源を使った説明で言葉の意味が納得できることがあります。発想を転換してみましょう。なぜそのような確かかどうかも分からない語源の説が生じて流布するのか?その語源が言葉の意味を理解させたり納得させてくれるからです。正しくなくても民間では実用的な方が人気が出来ます。通俗として人口に膾炙するのは何か意味があるのです。  本書ではこの現代哲学の名称の漢字の語源による方便を使ってきましたが、構造主義の解説でも同じく使わせてもらいましょう。  「構造主義」の「構造」とは何でしょう?  「構」とは形声文字で(木+冓)「大地を覆う木」の象形と「かがり火をたく時に用いるかごを上下に組み合わせた」象形(「組み合わせる」の意味)で、「木を組み合わせる」、「かまえる」という意味になります。日本語の五段活用でいうと「構わない」「構い」「構う」「構える」「構おう」などになります。転じて「かこい」「組み合わせる」なども表します。  「造」とは会意文字で(辶(辵)+告)です。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「道を行く」の意味)と「角のある牛の象形と口の象形」(いけにえとしてとらえた牛をささげて神や祖先に「つげる」の意味)から、物が目的点まで形を取るにいたる事を意味し、そこから、「つくる」を意味します。  それを合わせて「構造」とは「幾つかの部分から全体を成り立たせる組立て。全体を形作る、諸要素の依存・対立の関係のあり方の総称」「ひとつのものを作りあげている部分部分の組み合わせかた。ひとつの全体を構成する諸要素同士の、対立・矛盾・依存などの関係の総称。複雑なものごとの 部分部分や要素要素の 配置や関係」を表します。  このような「構造」の意味から「構造」とは「完成品は部分や部品を組み合わせることで作られている」「部分や部品、完成品を作っている部分、部品の間の関係」「全体とは要素同士の関係の総体を表したもの」という意味に発展します。  「構造主義」の「構造」とはこの意味から成り立っています。完成品とは部品全てを組み立てたものです。一つのものとしてとらえていたものが実はよく見ると細かい要素から成り立っているのだということを強調しています。さらに過激な結論を導くと要素から成り立っていないものなど存在していないのです。我々がそれ以上分けられない単一のものと思っていても、構造主義ではそれは必ず要素から成り立っています。ちなみに「単一」は「単に1つ」で「それ以上分けられない単位のようなもの」、「唯一」は「唯一つ」で「他のどこを探しても他の場所に同じものは存在しない」こと、「同一」は「時間が経っても同じである、変化しない」とイメージして下さい。  「単一」がここでは重要です。「同一」はあとで取り上げます。   構造主義を上記のように念頭に置きいたうえで構造主義による素朴実在論批判を行ってみましょう。素朴実在論を批判することにより素朴実在論への理解ではなく逆に構造主義への理解を深めていきます。  「素朴実在論」では単一のものが存在している様にイメージされます。しかし構造主義では「他の要素を必要としない単一のもの」という考え方がありません。単一であるように見えてもそれは何か別の要素から成り立っています。その別の要素もまた単一ではなくその要素自体以外の別の要素から成り立っています。何か単一のものと感じられたとしてもそれは間違いです。要素から成り立たない単一の存在はないのです。そのような要素のどれかが単一に存在する、つまり他の要素から構成されていないと考えることは構造主義ではしません。全ての単一と思われるものも他の要素から成り立っており、他の要素と関係しないでそれ単体で存在することはありません。結論として構造主義では全ての単体と思われているものは必ず他の要素から成り立ち、他の要素と関係します。素朴実在論では「単体として存在している」と見える者自体が他の要素を構成する要素となり、孤立せず何かの要素とは関係しているという意味で、全てのものと要素として関係しあいます。他の要素とつながりのない要素は存在しません。構造主義では要素しか存在せず、要素を「単一で実在するもの」と勘違いしているのが素朴実在論になります。「関係する」「要素の要素になる」ということを要素を線でつなぐことで表すと、全ての要素は線でつながっています。線でつながらない要素はありません。構造主義から見ると素朴実在論は「他のどの要素とも線でつながらない要素が存在する」と主張しているように見えます。構造主義では素朴実在論で存在しているとされているものの見方がこのように異なりますが、存在についての考え方でなく人間の認識に対する考え方も素朴実在論とは異なります。人間は何かが存在していると感じる事がありますが、それは実際存在しているものを人間が認識できる能力があるからではなく、要素間の関係から実体のように思える事を実体であると勘違いするプロセスとして考えます。実在論を「リアリズム」と言いますが人間は「リアリティ」があるものを「実在する」と勘違いする性質があります。「リアリティ」を感じる事は「リアリティを感じた対象が存在する」かどうかとは別問題であるのにリアリティを根拠に何か単一の実在があると主張しているのが素朴実在論だ、と構造主義は批判します。実際によく考えてみると「何かが実際に存在する」ということと「何かが存在するように強く感じる」ことをもって我々は何かが確実に存在し、正しく認識できると思っているのです。構造主義はその様な素朴実在論のからくりを分析し、批判しました。  関係ということばを広く使います。要素は他の要素と関係をもつことがあります。一方が他方の材料である場合もありますし、「ある要素が他の要素より大きい」というような大きなの違いや、「ある要素は他の要素より明るい」と言うように明暗の程度を関係性としてもかまいません。ある要素と他の要素が関係がなければ要素間に線は引けないし、要素同士が色々な関係を持つならば2つ要素の間を複数の線でつなぐことも可能でしょう。  要素の数がもし有限であれば原理的には要素同士の関係を全て線でつなげるかもしれません。異なる2つの要素は「関係」というものをいくつ取るかによって複数の線でつなげます。「要素」の数と「関係」の数が小さく有限であるとします。要素を点で、関係をどんな関係であれ要素同士をつなぐ線分で表すとすると要素と関係全体を図示することが出来ます。3次元的な模型を作ることも出来ます。この図示(グラフと言いましょう)や模型が完成したあかつきにはグラフから点を消してしまっても線が遺っているので後からまた点を書き入れることが出来ます。そこで点を書くのを省略しましょう。すると「線があれば点は要らない」ということになります。言い換えると「関係性が全て明らかであれば、要素が存在する必要はない」ということになります。「要素」を「存在」と再び書き直しましょう。すると「関係性から存在が二次的に生じる」ということになります。つまり構造主義では関係性の規定があれば存在は必要ないのです。必要はありませんが存在があっても構いません。だから言い換えれば「関係性の規定だけあればよく存在の有無はどうでもよい」となします。  構造主義の結論を導いたところで逆に素朴実在論を眺めると「存在があり、時に存在同士が関係することもある」ということになります。実在同士に関係があろうがなかろうが存在があることに変わりはありません。「存在は他の存在と関係があるかないかに関わらず存在することは確実と言える」「存在が一次的で存在同士の関係があるかどうかは全く関係がない別の問題である」というのが素朴実在論の結論になります。素朴実在論の存在論はその様なものですが認識論も同じようになります。「人間は存在を確実に、正しく認識できる」 「人間が存在を正確に認識できるという事実は、存在同士が関係を持つかどうかとは全く関係がない」という結論になります。  まとめると素朴実在論の「何かが確かに存在し、人間はそれを正しく認識できる」という主張に対して構造主義の批判は次のようなものになります。  「『何かが確かに存在する』とは言えない。何も存在しない可能性もある。その可能性を見落とす、あるいは否定して『何かが確かに存在する』を素朴実在論が主張するのは『何か存在』に現実感(リアリティ)を感じることを根拠にしていると思われる。しかし構造主義を使っても何も存在しないのに何かが存在するようなリアリティを持たせることが出来る。素朴実在論は他に実感を持てる考え方、例えば構造主義を知らないので仕方なく誤った結論を出すことになってしまったのではないか」 「何かが存在するのが確かだとしても、人間が正しくそれを認識できるとは限らない。認識できない可能性や認識できても正しくない認識である可能性がある。にもかかわらず素朴実在論は人間が存在を正しく認識できるということを断定してしまっている。存在を人間が正しく認識できるかどうかの説明を素朴実在論はできないが、構造主義を使えば人間が「正しい認識が出来る」と思い込む理由を説明することが出来る。素朴実在論は構造主義をしらないために本来導くことができない結論を導いてしまっているのではないか」 ということになります。構造主義を知っている立場から見れば素朴実在論は自説の他に自分の感じる現実感を説明できる構造主義のような考え方を知らないために「確かな存在」や「正しい認識」という考え方を作り出してしまったのではないかと考えられるのです。  素朴実在論しか人間の感じるリアリティを説明する有力な理論がないならば、 ⓐ「素朴実在論を肯定する」か、 ⓑ「素朴実在論を否定する」かの2通りの考え方しかありませんでした。   しかし構造主義が作られたことにより、 Ⓐ「素朴実在論も構造主義も肯定する」、 Ⓑ「素朴実在論を肯定し構造主義を否定する」、 Ⓒ「素朴実在論を否定し構造主義を肯定する」、 Ⓓ「素朴実在論も構造主義も否定する」、 の4通りの考え方ができます。  構造主義が作られたばかりの時にはⒸの考え方を持つ人がいて素朴実在論を批判しました。理由は大きく2つあって、一つはⒶⒷⒹの考え方に気づかなかったこと、もう一つは構造主義が構造主義が作られるより前のイデオロギーを批判する意味を持っていたことが挙げられます。  これが冒頭にあげたヘーゲルの弁証法 (*)「正があり、それに対立する反がある。対立する正と反が止揚すると合が生じる」 に現代哲学の作られた過程が似ているとした理由です。  §5.と§6.で素朴実在論と構造主義の説明をしたので、次の章でイデオロギーの説明をします。 §7.ポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の関係  素朴構造論は有史以来、全ての人類が持つ考え方です。それに対して「構造主義」と「ポスト構造主義」は遅れて認知されました。  西洋哲学では「構造主義」が作られたのは19世紀の後半から20世紀の中ごろにかけてです。それに対して東洋思想では西洋哲学より早く、仏教の開祖お釈迦様が発見したと考えられます。これには異論があると思われますので、明確に「構造主義」と「ポスト構造主義」が認知されたのは大乗仏教の開祖ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論であると思われます。しかしこれも後世の創作である可能性もあり天台宗の中興の祖智顗の三諦論の頃には明確に認知されたと思われるものの良く分からない部分があります。これは過去の出来事の難しいところで仕方がないのかもしれません。現代哲学の構造主義の理解は本書「やさしい現代哲学」でも本当にやさしく説明できているかどうかは自信がありません。東洋思想では「現代哲学」は廃れたり再興したりしながら仏教を通じて現在に伝わってきたと考えられます。廃れていた時期には仏教者の誰かが「現代哲学」を理解しても社会に何の影響もなく終わっていたことでしょう。  話を分かりやすくするために西洋哲学における現代哲学に話を絞ります。  構造主義が作られていない時代には全てのイデオロギーは無意識の前提として素朴実在論を基礎としています。素朴実在論からかなり離れた哲学を展開したと思われる人でも現代哲学のくびきから完全に開放されていると思われる思想はありません。何らかの形で素朴実在論の影響を受け素朴実在論を前提にした議論を行ってしまっています。不可知論者で素朴実在論を否定している様に見える人でも代替案がないためやはり無意識に素朴実在論を前提にしてしまっています。素朴実在論から解放されるには否定するだけではだめです。素朴実在論を前提にしなくてもイデオロギーを作れるようなはっきりした別の理論が必要です。それが初めて誕生したのが構造主義です。構造主義は始めは素朴実在論を否定するものとして流行しました。しかし構造主義ができたことによるさらに進んだ意義は「素朴実在論を肯定も否定もできる」ようになったことです。つまり相対化することです。これは構造主義にもあてはまります。構造主義を絶対化するのではなく、肯定も否定もしないでも落ち着いて安定していられる心理状態を持つ事が可能になりました。これは§6.ⒶⒷⒸⒹの4つの可能性を同時に考えられるようになることに相当します。この4つのうちどれが正しいのか?と言う議論もあり得るでしょう。しかし「そんなことを考えても仕方がないし実用性もない」と考えたのがポスト構造主義でした。これが§1.の①「正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない」です。  「それは虚無しか生まない、ニヒリズムである」とこの結論を否定する反論もありました。しかし別の見方をすると構造主義の成立は素朴実在論とことなるイデオロギーの基礎となる前提を示したという意味で、素朴実在論とも構造主義とも異なる第3の理論がある可能性も示唆するという意味で大変寛容で肯定的な結論でもあります。さらにポスト構造主義はネガティブに見える①だけではなく§2.②「確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る」を、また②の補論になりますが§3.③「人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る」という結論を導きました。これは大変ポジティブな結論です。「人間が決めることができる」ということは人間が主体ということです。 ここで本書恒例の語源から理解する名称の理解術を適用しましょう「主」とは象形で神壇に供えた燭台(しよくだい)に火が燃えている形にかたどっています。「炷(シユ)」の原字で神火を守る者、転じて「ぬし」の意を表します。 素朴実在論には無意識にあるいは暗黙裡に自分以外の「主」の存在を前提としています。具体的に言えば神や自然、真理や法則を指します。主が正しいこと、確かなことの決定者であり、人間は決められたことを探求するというのがこれもまた無意識あるいは暗黙裡の前提です。これは素朴実在論的な考え方です。ここまであえて「発見」という言葉と「発明」という言葉を併用してきました。ここで両者の違いを説明すると発見とは素朴実在論の考え方であり、発明とはポスト構造主義の考え方です。  イデオロギーとは世の中にたくさんあります。ポスト構造主義では②③に基づいて人間は既にあるイデオロギーを借用して自分のイデオロギーと決める出来ることを保証します。あるいは適当なイデオロギーがなければ自分でイデオロギーを作って自分のイデオロギーと決めることが出来ます。  作れることの保証とは作る方法が存在するということです。これだけでも重要なことを主張していますが作れると保証されても作り方が分からなければ作ることはできません。作ることが出来なければ借りてきて決めるだけになるでしょう。それだけでも画期的な思想なのですが現代哲学の長所は実用的な点です。「構造」は「造」を含みますのでこれは「造る」「造られた」という意味があります。後者であれば構造主義は作られたものを分析する理解のための道具ですが、構造主義の「造」は「造る」と言う意味があり実際に作るために構造主義を使用できます。「造る」と言う点を重視する場合、「構造」主義を「構成主義」と呼ぶことがあります。  構造主義は最初数学から生まれました。先行者争いは意味がありませんが言語学でも数学のやや後に生まれたようです。現代数学を勉強すると「論理主義」「公理主義」「形式主義」「直感主義」などの言葉に出くわしますが全て構造主義です。数学で作られた公理主義は物理学にも波及します。自然科学のうち最も基礎の学問は物理学であり、化学、生物学、地学などは物理学の応用科学で物理学を基礎にしているため、全ての自然科学は構造主義を基礎にしています。工学は自然科学の応用ですからやはり構造主義を基礎としています。20世紀の中ごろからフランスの人文科学や社会科学でも構造主義が流行します。科学以外でも芸術、美術、音楽などでも構造主義が流行します。当初は構造主義は素朴実在論批判、言い換えるとモダニズム批判と思われていましたがモダニズム批判を超えてジャン=フランソワ・リオタール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、ジャック・デリダなどによって展開された思想がポスト構造主義です。  モダニズムとは西洋近代哲学によって展開された哲学の総称です。全て前提として素朴実在論が仮定、あるいは暗黙の了解とされているためモダニズムという名称でくくられます。代表はルネ・デカルトの哲学です。考える自分の存在を確かなものとし客体とされるものも確かなものとし、自分が客体を認識する時それは確かな認識によってなされるとします。これら全ては主である神によって保証されます。  モダニズムの創始者はデカルトと言われますが、デカルト以後の近代の哲学は全てデカルトと同じ構図で成り立っています。これに対して構造主義成立の過渡期と、特に現代哲学の成立以降をポストモダンとしてモダニズムと区別します。 §8.イデオロギーとメタイデオロギー  イデオロギーとメタイデオロギーについては本書の最初で触れました。  ここでは話を簡単にするため西洋哲学の例で説明します。  結論から言うとポスト構造主義と構造主義が成立する前の全ての「哲学」は素朴実在を基盤としています。構造主義以後に構造主義によって作られた「哲学」は構造主義を基盤に作られています。話を西洋哲学の場合に限っていますので「哲学」という言葉を「イデオロギー」と言い代えて理解しても構いません。 それに対してポスト構造主義はメタイデオロギーであってイデオロギーではありません。  メタイデオロギーはイデオロギーのイデオロギーです。観念的なので現実生活とは関りがありません。どの様に話し行動するか、まとめて生活するかの直接の指針にはなりません。イデオロギーだけを扱うイデオロギーだからです。  それに対しイデオロギーはそれに従うことで生き方に影響を与えます。イデオロギーの扱うものを大きく分けて、現実、想像、象徴としましょう。現実は客観的世界と認識されるもの、想像はイメージ、象徴は記号や言葉と考えましょう。心の中の意識に現れるものを現象と言いますが現象は現実、想像、象徴で成り立っていると考える事にします。  哲学は現象を扱いますが現象には現実が含まれているため現実生活に影響を与えるのです。  §7.で主体の話をした時に、自分が主体であると書きました。主という言葉は世界三大宗教では特別な意味を持ちます。世界三大宗教は世界人口の大きな割合を占めています。世界三大宗教で特別であるとは「主」という言葉は唯一であり絶対である神を意味するからです。神を差し置いて人間が決定者であるという意見は不遜・不敬であり認められないという反論が当然あります。  世界三大宗教は人間の言動や行動を規定しているために現実の生活に影響を与えます。現代哲学ではこれをイデオロギーと見ます。ですからこれらの宗教を信じるか信じないかはイデオロギー選択の問題です。キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でもそれを自分のイデオロギーとして決めたければ主体的に決めればいいとポスト構造主義では考えます。  第一章の世界中の歴史上の天才たちが集まる議会や会議で「信仰によってのみ義とされる」と誰かが叫びました。マルチン・ルターです。ルターは宗教改革の引き金をひいた人物です。  また別の会議場では別の熱心な討議が行われていました。「神は自然数を作った。あとは人間のわざである!」また別の参加者が言いました。「カントールの作った楽園から我々を追い出すことは何人も出来ないであろう!」。  最初の発言者は現代代数学成立の過渡期の数学者レオポルド・クロネッカーです。あとの発言者は現代数学の父ダフィド・ヒルベルトです。ヒルベルトの発言の中で名前が挙がったゲオルク・カントールは集合論の創始者です。  ここは数についての委員会の会議場です。クロネッカーの主張は特徴的で近代から現代への過渡期の考え方の良いサンプルです。クロネッカーの言っていることはこうです。「自然数は素朴実在論で、その他の数は構造主義で扱うべきだ」ということで素朴実在論と構造主義をごちゃまぜに使用しようとしています。それに対するヒルベルトの反論は「数は構造主義で扱うべきだ」というものです。現在の数の概念はカントールの作った集合論の上に築かれています。ヒルベルトは構造主義である公理主義で全数学を構築し直そうとした人物です。  2つの例を挙げました。 §9.おわりに (字数29,701字)

2020年12月16日水曜日

やさしい現代哲学§6.のおわりまで。

§6.構造主義の説明だいたい終わり。ちょっと補う予定。 §7.構造主義と素朴実在論のイデオロギー論のまとめと応用を示す。 §8.でメタイデオロギー論とイデオロギー論をまとめて全体を終わらせる。 字数は24576字。 やさしい現代哲学 まえがき  現代哲学は難しそうに思われがちです。でもコツをつかめば誰にでも理解できます。コツをつかむにはきっかけが必要です。ダイヤモンドは世界一固いと思われています。しかしダイヤモンドをある方向からハンマーでたたくと簡単に砕けてしまいます。これはダイヤモンドは引っ掻いて傷がつきにくいという意味では確かに世界一固いのですが、劈開と言ってある方向から力をかけると簡単に割れてしまう面を持っているからです。  物事を理解することもダイヤモンドを砕くことに似ています。問題はどのような切り口からアプローチするかで難易度は簡単に変わります。ダイヤモンドをハンマーで叩く面や角度が分かればダイヤモンドは簡単に割れます。  何かを理解する時にはきっかけがあります。きっかけとは文字通り「切りかけ」がなまったものであり、何かを理解するというのは何かを切断するようなものです。切断するためには「切りかけ」なければいけませんが切りかけ方が悪いと切れるものも切れません。つまり簡単なものも理解できません。でも切り方が分かれば切れるのです。  2600年、古代インドでお釈迦様は仏教を作りお広めになり全アジアに大きな影響を与えました。東洋文化は仏教を基底としています。教えを説明するのに相手によって説法の仕方を変えました。後の世の人はお釈迦様が教えを説いた時期と説いた相手により経典を分類していますが愛手によって説明の仕方を変える事を方便と言いました。お釈迦様の教えは現代哲学と同じものと言われています。  本書では通俗的な例えを使って現代哲学をイメージできる様にしました。著者は4人の子供がいて子供たちに勉強を教えています。小中高の勉強を振り返ってみると大学で国語数学理科社会の教科をより深く(基礎から)より広く(発展させて)勉強した人から見ればほとんど嘘を教えているようなものです。基礎を説明もなく暗記させますし複雑にしないため大切な部分を省きます。結果として単純で解りやすいものがのこります。それはもう学問の原型を残さず別の形に変わっています。しかしそれでいいのです。子供の発達とはそういうものです。まず数を覚えさせ計算を覚えさせます。それなしに数とは何か、計算とは何かを教えるのは有害でしかありません。そもそも数や計算が何かと言うより大学ではそれを作って定義することから始めます。数や計算を知らずにその作り方から説明しても子どもには理解できず、かといって数や計算のイメージを持つ事も出来ず、何もできない子供になり不幸な人生を送るでしょう。大切なのは順番です。  現代哲学も順番が大切です。順番が大切ですがどういう順番がいいかは人それぞれです。それはお釈迦様の方便と一緒です。本書の切り口は現代哲学のイメージを作ることです。なぜそうなのかの説明は二次的なものとして結論を示します。前提として現代哲学のイメージを持っていない人に説明から始めるのではなく現代哲学の形を示します。現代社会は現代哲学神話的な社会ですので勘がいい人はそれだけで何かを悟る人もいるでしょう。ただダイヤモンドの専門家でもない人がたまたまダイヤモンドをハンマーで叩いてダイヤが割れたとしてもただの偶然かもしれません。しかしダイヤモンドの専門家に調べてもらって正しい方向から正しくハンマーを振り下ろせば割ることが出来るでしょう。現代哲学と言うダイヤモンドもそれと同じです。  仏教の核心は大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論、それをまとめると天台宗の中興の祖天台智顗の三諦論でそれを基本に東洋思想と東洋社会は作られました。それと同じように現代思想も、そして現代の社会も科学技術も現代哲学から作られています。  地球の大部分、70%以上を形成するのはマントルであり、マントルはかんらん岩でできています。そのマントルの中で作られるのがダイヤモンドです。ダイヤモンドは一番固くて傷つきにくいうえに屈折率も一番高いので一番輝く宝石であり「宝石の王様」と言われています。  現代哲学もマントルにおけるダイヤモンドの様に全ての知の結晶です。現代以前の全ての知の集大成から生じてカットして磨いたダイヤモンドが光を全ての方向に放つようにそこから放射して現代の全て思想、科学、技術を作る知の原石です。  本書が人類が到達した知の深層にたどり着くための道しるべになって多くの人が現代哲学を分かったと感じられるように祈り本書を執筆します。 §1. もう考えるのはやめよう!  「我考える、ゆえに我あり」「人間は考える葦である」、デカルトとパスカルの言葉です。意味はともかく人間は考えるものだということを言っています。  好奇心のおもむくところ、知りたいと思う心があるとき人は何かを考えます。考えようと望まなくても考えていると自分で意識しなくても人は何かを考えています。その「何か」は広範囲におよび、人が考えられる限りの全ての領域に網羅するようです。  人が考える事の中で究極のものと考えられたのが「真理」、とか「法則」などと呼ばれるものです。正しくて確かで全てのことを説明してくれる知の到達点です。「真理」や「法則」が分かれば全ての知りたいことが分かります。知りたいことの説明もつきます。間違っていないと主張できます。  「真理」や「法則」は宗教や哲学の専売特許でしたが途中から自然科学が参入しました。哲学は人文科学で研究されるようになります。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では「宗教」は「心理」や「法則」を知っているのは全知全能の神のみであると考えます。神は正しく全てを知っています。そもそも全ては神がつくったものです。議論の余地はありません。  哲学は「考える」ことによって「真理」や「法則」を研究します。その結論をまとめたものが現代哲学です。  現代哲学の結論は「もう十分に考えた。これ以上考えても仕方がない。もう考えるのは止めよう」というものです。この場合「考える」とは「探求する」ということです。  哲学が探求する「究極の真理」は何千年も天才から普通の人まで膨大な数の人類が追求してきたことです。そのため議論が出尽くしてしまった、と見なされるようになりました。 議会や会議で例えてみましょう。例えば古代から現代までの人類の天才たちが集まって会議をしたと考えます。その場で「真理」とは何か「「これ以上議論しても仕方がない」という感じです。議会や企業の会議で言えば「議論は出尽くした。決を採ろう」となります。学術的な議論の場合は決を採る必要はありません。 それでは会議や議会はムダかというとそうではありません。有益な点があります。持っている議論の材料を出し尽くすことが出来るかもしれません。また違いを知ることが出来るかもしれません。そして「ここまでは合意出来る」という共通点を見つけることが出来るかもしれません。つまり議題に対して「全会一致の結論が出る」までの有益性はないにせよ、「ここまでは全員が賛成できる」という部分的な合意は出来るかもしれません。合意できる全員の一致点を明確にすることは一つの情報になります。会議や議会が全く無駄なものに終わるか有益かどうかはケースバイケースです。哲学の場合は一致点を見出すことができました。 哲学が探求してきた「真理」や「法則」についての一致点をまとめて表現したものが現代哲学です。現代哲学は「これ以上考えても仕方がない」かどうかについて明確に判定します。同時に「全員一致の結論が出る」部分についても明確に判定しています。別の面から見ると哲学という学問の最低限の常識を示すことに成功しています。 その常識は何か。哲学では「有無を問う」「ある場合にはそれがどんなものかを問う」ことが問題になります。 哲学の最終的な答えは全員が合意できる「真理」や「法則」が有るか無いかは分からないというものです。そして例えそれが有ったとしてもそれがどういうものかは分からないというものです。  ここから現代哲学の1つ目の結論が導き出されます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。  これが現代哲学の1つ目の結論です。  次のセクションで2つ目の結論を示しましょう。 §2. これからは作っていこう!  §1の結論について別の見方をしてみましょう。  やはり人類の天才たちの会議を例に考えてみましょう。 「有無」「何か」「どういったものか」という問いをするとき、我々は既にある何かを念頭に置いています。§1で現代哲学が出した結論は「そういう問いへの答えは分からないので考えても仕方がない」というものです。真理や法則のようなものが「有る」「無い」「何々とは○○というものである」「どのようなものかというと○○というものである」と提案しても全員の意見の一致は得られません。もし一致があるとすると全員が棄権する場合です。もし全員棄権全会一致で何らかの合意が得られてもそれは正しさや確かさの保証にはなりません。多数決は決めるためのもので正しさや確かさを確認するためのものではありません。多数決では分からなくても決める事は出来ます。何しろ多数「決」と言うくらいです。これは悲観的な結論に見えるかもしれません。こんな結論受け入れられないと思う人もいるかもしれません。 しかし分かることが出来ずに決めることしかできないと書くと否定的に聞こえますが、逆に言えばもう分かろうとする必要がなく、決めることが出来るので決めることに専念すればよいと考えてみるとどうでしょう?今まで分かることに気を取られ過ぎて「決める」ことについては考えてこなかったとも考えられます。分からないことは考えずに決めることに全てを費やし集中的に考えてみます。すると決めることで新たな世界が開かれることが分かります。 物事はコインのようなもので表と裏は切り離せません。表裏をいい面と悪い面としてみましょう。コインが表裏一体のごとく物事のいい面も悪い面も同じものの別の側面に過ぎません。いい面があるゆえに悪い面があり、悪い面があるゆえに良い面があります。悪い面をなくすといい面もなくなり、いい面をなくすと悪い面がなくなります。ピンチの後にはチャンスありと言います。失敗は成功の基とも言います。    会議の反対は議会です。議会は法律を作るところですがもっと広く言うとルールを作るところです。過去から現在までの人類の天才たちを集めて議論しても「真理」や「法則」があるのかどうか、あるならどんなものなのか分からないというのが§1. の結論でした。何が確かか正しいか分からないことが分かったのだからもう考えるのをやめて自分たちで確かで正しいものを決めるというのが現代哲学の2つ目の結論です。  本当に必要なのか分からない会議に参加させられて不毛な議論にうんざりした経験のある方は多いでしょう。それは法律を作る議会のようなものです。§1では考えるのをやめようという結論について書きましたがそれは何も考えなくてもいいということではありません。「正しく確かなものを発見して証明する」ということから「正しく確かなものを作って機能を検証する」ことに考える事が変わっただけです。 この様に前提を替えてみると「正しさ」や「確かさ」などの言葉や概念は根本から見直す必要があります。もし「正しい」とか「確かな」という言葉を使うのであれば現代哲学のやり方で定義しなければいけません。そもそも「正しい」とか「確かな」という言葉や概念は現代哲学では必要ない可能性も出てきます。また「定義」という言葉も掘り下げると現代哲学では定義はするものであってされているものではありません。 そこで現代哲学では決めること、そして決めることを作ることが重要になります。度々議会を例えに使いますが議会で法案を作成し法律を成立させるのに似ています。現代哲学ではアイデアは発見するものではなく発明するものです。何かもうあるものを吟味するのではなく何かまだないものを構築します。 §1.で会議で全会一致の合意ができないものは切り捨てる話をしました。そこから「分からないものは考えない。考えても仕方がないものは考えない」という現代哲学の1つ目の結論を導きました。 しかしここから得られる教訓はこれだけではありません。全会一致できるものがないことが分かっても人間が考える生き物であることに変わりはありません。しかし「真理」や「法則」を発見しその正しさと確かさを保証するために頭を考えてるのはもう止めるというのが現代哲学の結論でした。分からなくても人間は決めることが出来ることも分かりました。そこで導き出る現代哲学の2つ目の結論は「全員一致で合意できない場合には全員一致で合意できることを作ってしまえばいい」というものになります。考えることを分かることではなく作ることに振り替えます。  ここで§2.で説明したことをまとめてみます。これが現代哲学の2つ目の結論です。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 §3. ポスト構造主義  §1.と§2.の結論を並べてみます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 もったいぶって長々しいと分かりにくくなることがあります。ですから最初からはっきりさせると①と②はポスト構造主義と呼ばれる考え方です。「ポスト構造主義」という名称は構造主義の後の思想という意味ですからそこから内容を推測することはできません。①と②をまとめてみると「真理や法則というものは分かるものではない。決めるものである」ということになります。  では何を真理や法則と決めましょう。大きく分けて2通りです。1つ目は自分で決める作ること、2つ目は既にあるものを借りてくることです。  この1つ目の「作る」ことがポスト構造主義の3つ目の特徴になります。この特徴と2つ目の「借りてくる」をまとめて、 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  これが現代哲学の3つ目の結論になります。  現代哲学はポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の3つの考え方から成り立っています。特に①②③はポスト構造主義の考え方になります。素朴実在論と構造主義については後の章で取り上げます。  §1.と§2.では人類の歴史上の天才たちの会議と議会の例えを使ってきましたので§3.でもその例えを使って考えてみましょう。  天才たちは真理や法則の候補をどんどん提案します。それを議論してどれが本当の真理か法則かを決めていきます。  心理の候補となるのは宗教た人類が目下構築中の自然科学、色々な哲学者が作った哲学  人類の歴史上の天才たちが集まってこれらの真理や法則候補を吟味します。  心理や法則の候補として有力なものは法案として議会に挙げて議場で議論し法律として採択します。  この天才たちの議会と懐疑に①を適用してみます。すると― どんなに話し合ってもどれが真理か法則かは分からないので議論しても仕方がないということになります。  議論しても仕方がないとはどの提案も真理・法則であるという結論は出せないということです。これは天才たちの頭が悪いせいではなくもともとそういうものである、と言うのが①が言っていることです。  これで終わらないのが②です。真理や法則はそもそも決めるものであって決まっているものではない、とイメージしてもらえばいいでしょう。 ①②を合わせるとあるのかどうか、あるならばどのようなものか我々には分からないが決めることはできる、ということを言っています。意志と決断の問題と言っているのです。 会議と議会の例で考えてみましょう。会議や議会では議論が行われます。議論をすることは考えることや分かることと一緒です。会議は議論するだけの場合もあるが決を採る(採決)、議決する場合があります。これは何かを決めることです。議会でいえば法案の議論から決を採り法律を制定することになります。 何かを決めることは決めたことが良いか悪いかや、正しいか間違っているかとは別の問題です。どんなに天才が話し合って決めた事でも間違っている場合もあります。実行したらとんでもないことになることを会議で決めてしまう場合もあるでしょう。議会であれば法治国家が機能していればとんでもない悪法でも施行されてしまいます。そもそも正しいか間違っているか、良いか悪いかが分かっていれば会議や議会など必要ないのかもしれません。正しい結論、良い結論が分かっているのにそれを実施させないために会議や議会を行い、悪い、間違っている結論を会議や議会で決めてしまう人たちもいるかもしれません。 ②は意志や決断が大切であり、人間に出来ることはそれしかないとも言い換えることが出来ます。議会や会議で決めたから決まったことが正しいとか良いとは言えないのです。決めること自体と決めたことの良否や正誤は別問題ということです。 直接民主制でも間接民主制でも議会制度とは議場を提供し議論するという機能と議決し法を制定するという異なる2つの機能を持つと考えます。考え、判断・決断し、行動し、行動の結果を受け入れる(責任を取る、尻(ケツ)をとる)ことを主体性とすると主体性を持った人が議会を形成するべきであるというのが自由主義的民主主義の考え方です。選挙権、被選挙権を持つ、議会の決定に関わる人は主体性を持った人で構成するのが理想です。極論をするとこの場合、主体性を持っても明らかに最良で最善な結論があるにもかかわらずそれを理解できない人が多ければ議会では最悪な決議がなされてしまうこともあり得ます。それでも②は人間には決める能力があると結論しています。たとえそれが最悪な選択肢であってでもです。  人間が決めることが出来るということは、決めることがどんな考えに基づいているとしても、決断(や判断)し、行動し、結果を残すことが出来るということです。  ここで①に返りましょう。人間は心理や法則について考えても有無、良否、正誤について分からないというものでした。そういったことを考えても仕方がありません。真理や法則にが分からないのであれば、分かるような真理や法則を作るというのが現代哲学の3つ目の結論です。  「正しい」や「確か」という言葉の意味を定義し、定義に合うように真理や法則を作ることに方向転換します。そうすると「真理」や「法則」は作られたものになります。これは決めた人々とって定義された「正しさ」「確かさ」を満たされていればよいのであって、これを決めた人々にとってだけの真理や法則です。そう決めることに同意しない人々にとっては正しくも確かでもありません。ですから昔ながらの意味の「真理」や「法則」とは異なるものと見た方が良いでしょう。異なるものには別の名称を付けた方が良いので「真理」の代わりに「公理」という言葉を、「法則」の代わりに「公理系における定理」という言葉を使ってみます。みんなにとっての真ではなく決めた人々にとってだけ正しく確かであればいいのですから「真」ではなく「公」という字に代えてみます。公理は人工的なものです。別にそれを公理と決めたくなければ認めなくても構いません。他人が公理と認めないのも自由ですし、自分が状況に応じて公理と認めたり認めなかったりしても構いません。つまり誰かに承認される必要はないですし、いつでもどこでも一貫してそれを公理と認め続けなければならないというものでもありません。約束事でありルールですから深遠な神学や哲学と言うよりはゲームやスポーツのようなものです。自然言語よりはプログラミングや通信の規格のようなものです。探求する科学より想像する工学、調査するノンフィクションより想像するフィクションのようなものです。  「決める」場合に何を決めるかについて上記は数学や自然科学の場合です。他に宗教や天才哲学者の哲学について考えてみます。  宗教の例としてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを考えてみましょう。これらの宗教は唯一の神がいて神は絶対で万能で全てを作り何もかも知っている存在です。人間は不完全な存在で神の様にはなれません。この場合人間が決めることはそのような神を信じるか信じないかです。また神の言葉が描いているとされる聖書を信じるか信じないかです。まとめると「神と聖書を信仰する」ことを決めるか決めないかです。「信じると決める」か「信じると決めない」かです。後者の「信じると決めない」ということは「信じないと決める」ことも含みますが、「信仰するかどうかを決めることをしない、あるいは保留する」や「信仰するかどうかに興味がない、どうでもいい、問題にする必要を認めない」などの場合を含んでいます。現代哲学のスタンスでは宗教に限らず何かを信じるか信じないかどうでもいいから問題にしないかを決める、ということに言い換えられます。  現代哲学では決めることが大切なので、信じる人は信じると決めたらその人にとてってはそれが真理と決めることになります。ただ注意点として聖書や神を真理と考えても、他にも真理がある可能性もあり、それも同時に信じることも出来るかもしれません。他の真理が神や聖書と矛盾していても人間は矛盾したことを信じられる性質を持っています。他の例として神も清書も否定すると決めるのも好例で、これは無神論になります。神や聖書が真理かどうか分からないと積極的に決めた場合は不可知論と言います。その他「神や聖書や心理や法則はどうでもいいと決める」立場もありこれはお釈迦様の考え方です。原始仏教の経典に簡単に書くと「そんなこと考えるよりも修行しろ」とお釈迦様が仰られたとの記載があります。  では宗教ではなく過去の色々な哲学者の哲学について考えてみましょう。哲学は真理や法則を探求しようとする姿勢がありました。そして哲学者によって考えられたのが色々な理論や仮説です。よくできた理論や仮説についてはそれを真理や法則としてしまっていいのではないかと考える人、実際に真理や法則と考えた人もいたようです。後者は何かの「理論や仮説を真理と信じる」と決めたことになります。無意識の決心かもしれませんが人間は沢山の無意識の決心がある、言い換えると「人間は知らない間に何かを信じているが、自分ではそれに気が付いていない場合がある」ということになります。  真理や法則を「決める」ことが必要であるなら何を正しく確かなことと決めるかの選択になります。そのため科学、宗教、哲学などの例を見てきました。  科学の場合は理論や観察・観測を正しいものと決めます。この場合理論は誰かが作ったものです。発案者にとっては自分で作ったものを決める対象に出来ますが、それ以外の人はその発案者の発明を借りてきて決める対象にします。  宗教の場合は教義を作った人々が分かるのであれば彼らは自分たちで作ったものを決める対象にしますがそれ以外の人々はそれを借りてきて決める対象にします。  哲学の場合は哲学理論を作った哲学者はそれを決める対象に、それ以外のその哲学理論を決める対象に人々はその理論を借りてきて自分の決める対象にします。  §1.と§2.と§3.の特徴をまとめて再述します。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  そもそも本当は何も正しいもの、確かなものを特定する必要はない可能性もあります。正しいもの、確かなものに執着するのは現代哲学より前の思想の特徴です。  そういう意味では①②③は現代哲学の外から見た現代哲学の見え方です。   次の章でポスト構造主義を簡単にまとめます。その後の章で現代哲学の3本柱のうちの2本(1本はポスト構造主義で3本のうちの大黒柱)を説明します。 §4.ポスト構造主義    いつもの通り結論から書くと「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」です。  前章までで真理、法則、正しいもの、確かなもの、公理、定理、理論、観測・観察、宗教の教義と色々な言い方が出てきました。その候補として上げられるものはひとまとまりの考え方です。これをイデオロギーとここでは呼びましょう。日本語に訳すとイデア+ロゴスですから思想や倫理といえるかもしれません。思想や倫理とは広くは人々の思いなしであり、合理的、論理的なものはごく一部です。「理」とは「璞を磨いて現れる模様」が語源です。模様とは図でありグラフでありもっと言えば絵です。「絵」には正しいとか確かだとかは関係ありません。同じような語源論法を使うと「論」とは「言」と「侖」の会異形成文字で竹簡を集めることで文章や発言のまとまりの事です。「議」とは「言」と「議」を組み合わせた会意形成文字です。「義」は更に「羊」と「我」という二つ文字からできています。原義は神のために捧げる羊を正しく切り分けること」で転じて正しい判断という意味になります。漢字を形成する最小単位を「文」、文を組み合わせて出来る漢字を「字」と言います。「議」は「言」+「羊」+「とは判断するということで「議」とは言葉を使って正しい判断を行うことを表します。理論とは、(1)「絵」を文章にすること、あるいは②「理」と「論」つまり絵と文章を使って表現されるもの、つまり説です。「説」は「言」と「兌」の会異形成で「論理とは2つの意味、一つ目は「論」と「理」、文章と絵を使って表すことあるいは表さ「兌」ははがすの意味でので「説」言葉ではがして中身を出すということです。「論理」とは「論」の理、つまりその論がどのような構図になっているかを示すことです。合理とは「理に合うこと」つまり絵や構図やグラフ、言い換えれば関係性に合っていることを表します。  イデオロギーという言葉は科学や哲学の理論や仮説も指しますが、「生き方のスタイル」「行動のポリシー」など単にその人が個人的な嗜好で決めた正しいだとか確かだとかは関係ない考えや意図なども含みます。普通、イデオロギーというのは現実と関係します。例えば物理学の理論は現実の観測結果を矛盾なく説明するためのものです。宗教の教義はその人の現実の言動や行動を戒律に合うようにさせるでしょう。個人的なスタイルやポリシーも同様で現実の何かから影響を受けて形成され、形成されたスタイルやポリシーに従って現実を生きます。大まかに前半は理由を説明するためのもの、問題に答えを与える説明体系であり、後半は思考、感情、意志、行動などにおける実践方法を示したものです。    最初の「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」というテーマに戻りましょう。言い換えると「ポスト構造主義とはイデオロギーに関する理論である」ということになります。  イデオロギーの研究は他にもあります。そしてイデオロギーに関する色々な理論や説があります。ポスト構造主義もその一つです。イデオロギーに関するイデオロギーをメタイデオロギーと呼びましょう。ポスト構造主義はメタイデオロギーです。メタイデオロギーに対して普通のイデオロギーは現実と関係があるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。これはmetaphysics、physicsと呼ばれる形而上学や形而下学と似ている様に見えますが特に関係がないので誤解がないよう注意として挙げておきます。  ポスト構造主義のイメージを膨らますための例示をしていきます。 メタイデオロギーであるポスト構造主義の特徴として「どれか特定のイデオロギーを特別視することはない」というものがあります。これをイデオロギーについての相対主義と呼びます。相対主義以外にはどれかどれかのイデオロギー絶対視するイデオロギーの絶対主義というものがあります。これは特定のイデオロギーが正しく確かであるとする考え方です。イデオロギーが理論や仮説であれば真理や正しく確かな法則に格上げします。生き方に関するイデオロギーが正しく確かであるということであれば「こう考えこう行動しなければいけない」「こう考えてこう神津してはいけない」という風に生き方を強制します。ポスト構造主義はある特定のイデオロギーの絶対化を行わないため、現代哲学を勉強してマスターし現代哲的な生き方をしようと決めた場合、どれか特定のイデオロギーに盲従することはなくなります。現代哲学ではどれか特定のイデオロギーを推奨することも排除することもしません。イデオロギーはみな平等です。特にどれが正しくどれが確かだという見方をしません。そんなことは考えても仕方がないことだと考えます。その代わりにその時々、場所や状況に応じて自分の従うイデオロギーを自分で決めます。その状況に合ったイデオロギーがなければ作り、あれば借りてくればよい訳です。適当なイデオロギーが見つからず選択できなければその様な知的な作業を行わず気の向くままに考え行動することもあります。 現代哲学ではどのイデオロギーを選択してそのルールに従って行動するかは完全に自由です。損益やコストパフォーマンスを高めるなどの条件があればそれに適したイデオロギーを選べばいいですし、特に条件がなければ気まぐれに、あるいは直感で、あるいは嗜好でイデオロギーを選択する、あるいはイデオロギーの選択ということを考えずなすがまま、成るようになるよう、出たとこ勝負で考え行動してもいいでしょう。 どのイデオロギーを選択するか、あるいは選択しないかは自由です。複数のイデオロギーを選択するのもあり得ますし、選択したイデオロギー同士が矛盾していても矛盾する両方のイデオロギーを同時に選択することも出来ます。このようにポスト構造主義のイデオロギーの選択の自由をメタ自由主義と呼びましょう。「選択」という言葉を使っていますが、これは前のセクションまでの「決める」と同じ意味です。ただの自由主義ではなくメタ自由主義と呼ぶのはこれがやはり一般的に言われる自由主義とは異なるからです。一般の自由主義とは世俗のイデオロギーの自由主義を指します。具体的な世俗のイデオロギーは現実と関わるため自由に現実的な制限があります。メタ自由主義は現実と関係ない観念としての自由主義であるため現実の制約がありません。怖い程に自由です。この現代哲学の自遊空間には世俗的イデオロギーの集合があってどれをどの組み合わせで選ぶかが自由です。そこであるイデオロギーを選択するかしないかは選択肢になります。採決し採択した選択肢を採用するわけです。 現代哲学をマスターするということはこれらを意識し自覚的に実行できる能力を持つということです。 ポスト構造主義では何でも決めていい、選択してもいいと書きました。現代哲学に他に必要なものはメタ認知と自覚です。 メタ認知とは自分が思考上、イデオロギーの採用を行っていることを自覚している状態です。客観的、あるいは俯瞰的な目で自分と自遊空間、選択肢、選択肢を決める作業を行いそれを自覚するということです。 「随処に主となれ」これは仏教の言葉です。いつでもどこでも自分が主体となりなさいと言う意味です。「いつでもどこでも自分が主体となりなさい」と言う意味です。現代より前の真理探究は㋐「何かによって何かが決まっている」、㋑「何かが何かを決めている」という意識があり、「それを探求し証明するのが人間だ」という形式から成り立っています。具体例でいうと㋐の例は「神が世界の全てを決めている」、㋑の例は「自然の究極の法則があり、それが世界の全てを決めている」などです。 この形式を別の視点で見ると主たる何かがあり、自分はそれに対して従の立場にあるという姿勢が隠れています。現代哲学はこれの逆の立場を取ります。つまり自分が主で自分が決める何かは従となるということです。従になる「何か」とは現代哲学でははイデオロギーを指します。現代哲学から見れば、現代哲学より前の「イデオロギーがあって人間がそれに従う」のではなく「自分がイデオロギーを従える」という見方になります。より詳しく言うと「必要であれば自分がイデオロギーを選んでそのイデオロギーに従うと決める」ということになります。言い換えると自分がどのイデオロギーを選ぶのか決めます。 ここでもう1つ強調したいのは「必ずしも人間は従うイデオロギーを決める必要がない」ということです。イデオロギーを決めるということは故意の行動になりますが、別に人間はわざわざイデオロギーを決めなくてもよい場合があるということです。「良い場合がある」どころか「決めなくてもよい場合の方が多い」と言ってもいいかもしれません。何らかの理由でイデオロギーを決めようと思った場合にのみイデオロギーを選べばいいわけであって、決めようと思わない、あるいは決めるのを避ける場合にはイデオロギーを決めないことが選択肢になります。この「イデオロギーを決めない」ことも現代哲学の大切な考え方です。 イデオロギーを決めるか決めないかは任意で、決めない方が自分にとって幸福な場合や不幸を避けれる場合もありますし、決めたことで不幸になったり幸福を失う可能性があります。ですから「イデオロギーを決めない」選択も忘れないようにしましょう。 では「自分が従う立場になる、自分より上の主に当たるものはないのか?」という問いを立ててみましょう。これに対する現代哲学の答えは§1.の①、「分からないから考えても仕方がない」になります。 ここまで一口にイデオロギーと言ってきましたがイデオロギーについてもっと具体的に考えてみましょう。イデオロギーを決めるということはそのイデオロギーに従った思考や行動をするということになります。さてイデオロギーをどうやって見つけたらいいでしょう? それは§3.の③「人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る」を適用します。つまり新たなイデオロギーを作るか、すでに知っているイデオロギーを借りてくるのです。既にあるイデオロギーを借りてくる場合のイデオロギーは自分が前に作ったものであったり、他の誰かが作ったものであったり、出所不明なものであったりします。何であってもそれを自分のイデオロギーにしようと思えばすれば良い訳です。 では自分が決めたいと選びたいと思うイデオロギーが思いつかない場合はどうしたらいいでしょう? まあなんでもそうですが過去の勉強は大切でいろんなイデオロギーを勉強して知っていなければ何かの理由で何かのイデオロギーを選びたい場合でも適当なイデオロギーが思いつかないかもしれません。イデオロギーを決めたい理由が出来てからイデオロギーを探すのが1つの方法ですが、見つからない場合には§3.③に含まれているもう一つのルール、「作ることが出来る」から自分で作るのが解決法になります。③は何らかのイデオロギーを作れることを保証しています。現に今あるイデオロギーのうち、出所が確かなものはたくさんあります。沢山のイデオロギーが昔の人々によって作られましたし、今もこれからも作られていきます。「イデオロギーを作る」ための難点はイデオロギーを作る能力が必要なことです。この場合の能力には「時間」や「労力」を含めることにします。“能力”ですので過去の勉強や教養がとても大切で時に歳を取ってから「若いうちに勉強しとけばよかった」とか若い人に「若いうちにべんきょうしとけ」という年配者の存在からこれは分かります。とにかく借りてくるイデオロギーが見つからないけれどもイデオロギーを決めたいと思う人のもう一つの方法は「自分でイデオロギーを作ること」になります。 §4.以降は「イデオロギーの借り方と作り方」がテーマになります。そのために「素朴実在論」と「構造主義」の勉強をします。ポスト構造主義が現代哲学の骨格をなすものであるとすれば、「素朴実在論」と「構造主義」はイデオロギーを分析したり理解したりするのに必要です。全てのイデオロギーはこのどちらか、あるいは両方で作られて行っても過言ではありません。「素朴実在論」と「構造主義」を学ぶことでイデオロギーの分類が出来ますし自分で作る時の参考になるでしょう。 §4.メタイデオロギー論からイデオロギー論へ   §3.まではポスト構造主義とは何かについて書きました。 ポスト構造主義と構造主義と素朴実在論は現代思想の三本柱ですが中でもポスト構造主義が支柱です。ポスト構造主義が分かれば現代哲学は分かったと言ってもいいかもしれません。ポスト構造主義はイデオロギーに関する理論です。ポスト構造主義が分かれば現代思想がイデオロギーをどう見ているかについて納得がいくでしょう。イデオロギーに対する姿勢も分かります。ポスト構造主義が分かっていれば現代哲学についてある程度分かっていると誇っていいでしょう。構造主義や素朴実在論の知識が曖昧でもです。人間はイデオロギーの操り人形ではありません。人形遣いです。イデオロギーが人形遣いで人間が人形であるわけではありません。  人形であること、人形遣いであることはどちらがいいとか悪いとかは言えず、どちらにもいい面、悪い面があるかもしれません。ですからイデオロギーが主で自分が従である状態を単に受け入れる方が幸福である場合もあるでしょう。しかし人形遣いになるなら人形の操り方とこの場合操る道具の人形について勉強しておくに越したことはありません。人形遣いの仕事は人形を操ることですが、§3.の③にイデオロギーを作るこが出来る事を書きました。これら人形遣いによる人形の研究、つまり現代哲学におけるイデオロギーの研究とイデオロギーの使い方、イデオロギーの作り方について理解を深めることに相当します。現代哲学を指針に生きることは主となることに相当します。  ポスト構造主義が分かれば現代哲学の半分は分かったと言ってもいいと思います。 これは現代哲学の習得の必要条件で場合によってはポスト構造主義のマスターだけでもいいかもしれません。  しかしポスト構造主義のマスターではなく現代哲学のマスターになろうと思えば残りの2本の柱である素朴構造論と構造主義の理解が必要になります。これを理解すると残りの半分を理解したことになり現代哲学のマスターの必要十分条件を満たすことになります。本書ではまず哲学の歴史の到達点であり総決算であるポスト構造主義のマスターを先に行ってもらうように企図しました。西洋の哲学の歴史を振り返ってみると全てがポスト構造主義に至るための過程であったと総括できます。つまり帰納的にポスト構造主義に収斂(収束)し哲学全ての原理となりました。本書は現代哲学の説明や成り立ちの解説ではなくイメージを持ってもらうことを意図して書かれています。ですので原理となったポスト構造主義から出発して演繹してそこから生じる全ての結論や運用方法を説明するように書かれています。ですが実際の哲学の歴史を見ると素朴実在論がまず暗黙の前提として気付かれぬまま存在し、それを批判する形で構造主義が見出され、その両者を相対化させて両立させる、弁証法と言う方法でいえば止揚させるためにポスト構造主義が生まれました。  素朴実在論と構造主義はどちらもイデオロギーの根底をなすものであり、イデオロギーはそのどちらかから成り立つか、その両方を同時に満たすように成り立つか、場当たり的にその両方をまぜこぜにして作られている場合が殆どです。どちらにも全く関係していないとすれば思考ではなく感情や意欲によって成り立つ神秘主義や本能のままに行動する刹那的な生き方か、思考する間も与えられるまま決断を繰り返さなければいけない切迫したスポーツや戦闘、仕事、生活、芸術等の場面などが挙げられると思います。これは思考をほとんどしない、あるいは出来ない場面で現れるあり方です。本書は哲学の思考を扱う面を重視し、イデオロギー論、メタイデオロギー論を主軸として議論を展開し、知情意のうち知である思考以外の感情や意欲などの情意については簡単に説明します。つまり西洋哲学は素朴実在論、構造主義、ポスト構造主義の順番で始まり発展し終焉しました。  他方で初めから、ポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の全てを兼ね備えて出発したのが仏教です。釈迦から始まり根本分裂、枝葉分裂と何回か混乱しますが大乗仏教の成立にて最初の根本に返ります。これをナーガールジュナ(漢字で龍樹の空論、中観論といいます。また中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗の三諦論(空、戯⦅仮、色ともいう⦆、中の3つの論から成る理論もそれにあたります)しかしその後の歴史はその根本が忘れられたり思い出されたりの繰り返しでした。いわゆる東洋思想は仏教の影響を強く受けているので現代哲学的な要素が繰り返し現れるように見えます。仏教では教えの核心に到達することを悟りとか解脱といい悟った人を仏陀(覚醒者)といいます。おそらく仏教の歴史上有名、無名を問わず悟った人がしばしば現れたのでしょう。  ポスト構造主義については前の三章で説明しました。次章からは素朴実在論と構造主義について説明していきます。 §5.素朴実在論とは何か?  「実在」とは何でしょう? “実際に存在する”を縮めた言葉です。哲学では似た意味の言葉に「実存」というのがあります。「実存」は“現実的存在”の意味です。 「在」は会意形声で「土」+音符「才」であり「才」はイコール「在」と同じで古体は「扗」になります。流れをせき止める板材の象形(又は指示)で「とどまる」の意味になり、流れをせき止め場所を明確に区切ることです。「存」は会意で「才」+「子」から成り立ち、「才」で流れを止めて「子」をあるべき場所に据えるという意味です。  「実存」の「実」の「現実的」とは「現実を受け入れる」「現実を見ろ」と言う場合の意味です。現実を出発点として考えそうなった原因や「人とは何か」「世界とは何か」という本質への問いかけをやめるということです。人と人を取り巻く世界を感じるがままの存在として受け入れそれが何かと問うのではなく、「人と言う存在はどうやって生きるか」「世界と言う現実は人にとってどのような意味を持つのか」と考えるのが実存哲学になります。  一方「実際の存在」である「実在」とは何かが確実に存在しているとする考え方です。何かとは自分が存在していると思っているすべての物が対象になります。実在論とは英語ではリアリズムと訳します。実在論は中世以前はイデアが実在するという理論でした。本書で素朴実在論と言う場合は控えめに言ってイデアでも何でもいいから何かが少なくとも存在するという考え方です。このように謙虚にではなく傲慢に言えば自分が存在していると思っているものは確実に存在するという考え方です。我々が何かを認識する時認識される対象は確かに存在してしかも存在をありのまま正しく認識しているという考え方です。  控えめに言って㋐「あるものが確実に存在すれば我々はそれを正しく認識できる」可能性があると言えるでしょう。あくまでも「控えめに言って」であり断定ではなく「可能性がある」とまでしか言えません。それではそれを逆にして㋑「我々が何かを認識しているから何かに少なくとも何かが存在しているのは間違いないはずだ」と考えるのはどうでしょう。㋐も㋑も成り立っていると考えるのが素朴実在論です。素朴実在論は知能の発達に障害がなければ我々全員が持ち得ることのできる考え方です。素朴実在論は意識して自覚されている場合もあれば、無意識に思い込んでいるだけの場合もあります。簡略化すると㋐′「正しく認識できるので認識できるので確かに存在していると言える」、㋑′「確かに存在しているので正しく認識できる」の両方が成り立っていると考える、あるいは思い込む場合を大雑把に素朴実在論と呼びます。この場合「存在」は知覚できる物体の場合もありますし、想像の中のイメージの場合もあります。  素朴実在論は正しいのかと言うと突っ込みどころがたくさんあります。まず㋐と㋐′を見ると何かを認識できることはその何かが実際に存在している事の根拠となるのか?という疑問が生じます。結論からいうと根拠になりません。現実にないものを幻覚や妄想であると思っているだけかもしれないからです。  次に㋑と㋑′を考えます。仮に存在しているならそれを認識できるか、その認識は正しい認識かという疑問が生じます。やはり結論から言えば例え確かに存在しているものがあったとしても、それを我々が認識できるとは言えないし、認識できてもそれが正しいとは言えない、ということができます。  つまり「何かが存在してそれを認識できる」ということと「何かを認識しているのでそのもととなる存在するものがあるはずだ」はどちらも間違っているとも正しいとも言えません。「確かな存在がある」としてもそれは「正しく認識できる」場合も「正しく認識できない」場合も等しく考えられますし、「何かを正しく認識している」が愛にも「確かなものが存在する」場合も「確かなものは存在しない、あるいは何も存在しない」場合も両方ともあり得ます。  存在の根拠に認識を、認識の根拠に存在をおくことはどちらもできないのです。 これが素朴実在論に対する批判論です。  批判論から説明しましたが素朴実在論とはつまり「何か確実なものがあって人は正しくそれを認識することができる」「何かを認識している時には実際に確かな存在があってそれを正しく認識している」からなる理論です。  この考え方には誰もがピンとくるでしょう。これは誰もが持っている考え方です。それはなぜかというと生まれてから大人になるまでの発達の過程で人間は素朴実在論を身につける様にできています。これは生物学的にも心理学的にも社会学的にも傍証が得られている考え方です。定型的な認知発達における土台をなすものです。素朴実在論的な認知能力を身につけないと子供でも大人でも社会に出てくろうします。これができずにIQが低く出ると知的障害や精神発達遅滞と言われてきました。IQが高い場合には通俗化した精神医学の知識に基づいて「発達障害ではないか?」と疑われてしまいます。  批判した後で持ち上げているようですがある意味では現代哲学の3要素の中ではこれが最も生きていくのに必要な考え方です。発達の過程で子供は素朴実在論を身につけますが、それを邪魔してポスト構造主義や構造主義を無理に教えようとしたらどうなるでしょう?山本七平氏の「日本人とユダヤ人」という本の中に「留学して外国の歩き方を覚えようとしたら身につかず、もともとの歩き方も忘れてしまって這って国に帰った男」の例が出てきます。これは悲惨な状態です。このような状態を社会学ではアノミーといいます。自分の準拠べき規範がなくなってしまった状態です。分かりやすく言うと素朴実在論は嘘です。厳密にいうと素朴実在論の考えたしかできない人は何かに騙され続けて生きていくでしょう。素朴実在論は批判はされても必ず必要です。しかし嘘に騙されずに生きていくためには構造主義を習得しなければいけません。同じ対象に対して素朴実在論と共に必ず構造主義的な見方が立出来ます。逆もそうで、構造主義的に見ている対象を素朴実在論的に見ることも出来ます。  教育においては最初は素朴実在論を前提に子供に教えます。ですから小学校、中学校、高等学校と言えども教わることは全て嘘です。しかし子供に勉強を教えてあげた人は分かると思いますが、人間は最初は素朴実在論的認知しかできません。ですからだましだまし嘘を教えるしかありません。義務教育では嘘しか教えません。しかしそれが嘘でない本当のことを学ぶための階段になります。嘘の階段を上ることでしか嘘でない本当のことを勉強できません。嘘でない本当の勉強は高等教育である大学で学びます。素朴実在論を褒めも批判のしましたが、素朴実在論的な考え方ができないならば例え構造主義やポスト構造主義をマスターしてもそれはそれで欠陥があると考えてください。その場合はイデオロギーについて構造主義でしか考えられない偏った人になってしまっています。構造主義は素朴実在論批判のために作られましたが、ポスト構造主義は素朴実在論を否定し構造主義でしか考えられない人を批判するために作られています。  ここまで構造主義については説明してきませんでしたが次章で構造主義について説明します。 §6.構造主義について  ヘーゲルと言う哲学者が弁証法という考え方を次の様に説明しました。 (*)「正があり、それに対立する反がある。対立する正と反が止揚すると合が生じる」 ちなみにカタカナドイツ語と哲学用語を合わせて使うと「正」とは「テーゼ」と言います。;「テーゼ」は語源はギリシア語で昔の学術用語ではラテン語やギリシア語がよく使われました。「テーゼ」は、「定立」「(初めに)立てられた命題」「正・反・合の、正」「綱領」などの意味です。「反」は「アンチ」、「止揚」は「アウフヘーベン」、「合」が「ジン」と書き換えられ、(*)をカタカナ日本語にすると、 (*′)「テーゼがあり、それに対立するアンチテーゼがある。対立するテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンするとジンテーゼが生じる」となります。  余談になりましたが、(*)は具体的には以下の様に使われます。例えばこの分を「論」という言葉を加えて具体化してみると、 「正論があり、それに対する反論がある。対立する正論と反論が止揚すると(正論と反論を両立させる『新たな統一理論論が生じる』」となります。 (*)は構造主義を説明するのになかなか便利な見方です。(*)を使うと構造主義は、 「素朴実在論があり、それに対立する構造主義がある。対立する素朴実在論と構造主義が止揚するとポスト構造主義が生じる」となります。これは現代哲学の成立の過程を正確に表しています。  「構造主義」は多分現代哲学の中では一番難しい概念かもしれません。お釈迦様は教えを説くのに方便を用いました。聞く人が知らないことを説明するには聞く人が知っていることを引き合いに出してそれと同じことだよと聞いている人の直感的理解を促す方法です。伝えたいことがきく人の知っている何かと同じところがあることを理解すると分からなかったことが途端に分かる場合があります。これが「例」または「比喩」による方便です。お釈迦様が使ったくらいですから大変良い方法ですので我々もこの方法を使いましょう。  また人を納得させる方法の一つに「語源からの説明」があります。その概念になぜそのネーミングを行たかを理解する事で概念の意味を理解する方法です。「民間語源」「通俗語源」と呼ばれているものがあります。由来がはっきり分からない語源や正しくないと分かって語源のことを言います。そのような語源にこじつけて名前の意味を理解する事があります。語源が正しいとは言えないのにその語源を使った説明で言葉の意味が納得できることがあります。発想を転換してみましょう。なぜそのような確かかどうかも分からない語源の説が生じて流布するのか?その語源が言葉の意味を理解させたり納得させてくれるからです。正しくなくても民間では実用的な方が人気が出来ます。通俗として人口に膾炙するのは何か意味があるのです。  本書ではこの現代哲学の名称の漢字の語源による方便を使ってきましたが、構造主義の解説でも同じく使わせてもらいましょう。  「構造主義」の「構造」とは何でしょう?  「構」とは形声文字で(木+冓)「大地を覆う木」の象形と「かがり火をたく時に用いるかごを上下に組み合わせた」象形(「組み合わせる」の意味)で、「木を組み合わせる」、「かまえる」という意味になります。日本語の五段活用でいうと「構わない」「構い」「構う」「構える」「構おう」などになります。転じて「かこい」「組み合わせる」なども表します。  「造」とは会意文字で(辶(辵)+告)です。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「道を行く」の意味)と「角のある牛の象形と口の象形」(いけにえとしてとらえた牛をささげて神や祖先に「つげる」の意味)から、物が目的点まで形を取るにいたる事を意味し、そこから、「つくる」を意味します。  それを合わせて「構造」とは「幾つかの部分から全体を成り立たせる組立て。全体を形作る、諸要素の依存・対立の関係のあり方の総称」「ひとつのものを作りあげている部分部分の組み合わせかた。ひとつの全体を構成する諸要素同士の、対立・矛盾・依存などの関係の総称。複雑なものごとの 部分部分や要素要素の 配置や関係」を表します。  このような「構造」の意味から「構造」とは「完成品は部分や部品を組み合わせることで作られている」「部分や部品、完成品を作っている部分、部品の間の関係」「全体とは要素同士の関係の総体を表したもの」という意味に発展します。  「構造主義」の「構造」とはこの意味から成り立っています。完成品とは部品全てを組み立てたものです。一つのものとしてとらえていたものが実はよく見ると細かい要素から成り立っているのだということを強調しています。さらに過激な結論を導くと要素から成り立っていないものなど存在していないのです。我々がそれ以上分けられない単一のものと思っていても、構造主義ではそれは必ず要素から成り立っています。ちなみに「単一」は「単に1つ」で「それ以上分けられない単位のようなもの」、「唯一」は「唯一つ」で「他のどこを探しても他の場所に同じものは存在しない」こと、「同一」は「時間が経っても同じである、変化しない」とイメージして下さい。  「単一」がここでは重要です。「同一」はあとで取り上げます。   構造主義を上記のように念頭に置きいたうえで構造主義による素朴実在論批判を行ってみましょう。素朴実在論を批判することにより素朴実在論への理解ではなく逆に構造主義への理解を深めていきます。  「素朴実在論」では単一のものが存在している様にイメージされます。しかし構造主義では「他の要素を必要としない単一のもの」という考え方がありません。単一であるように見えてもそれは何か別の要素から成り立っています。その別の要素もまた単一ではなくその要素自体以外の別の要素から成り立っています。何か単一のものと感じられたとしてもそれは間違いです。要素から成り立たない単一の存在はないのです。そのような要素のどれかが単一に存在する、つまり他の要素から構成されていないと考えることは構造主義ではしません。全ての単一と思われるものも他の要素から成り立っており、他の要素と関係しないでそれ単体で存在することはありません。結論として構造主義では全ての単体と思われているものは必ず他の要素から成り立ち、他の要素と関係します。素朴実在論では「単体として存在している」と見える者自体が他の要素を構成する要素となり、孤立せず何かの要素とは関係しているという意味で、全てのものと要素として関係しあいます。他の要素とつながりのない要素は存在しません。構造主義では要素しか存在せず、要素を「単一で実在するもの」と勘違いしているのが素朴実在論になります。「関係する」「要素の要素になる」ということを要素を線でつなぐことで表すと、全ての要素は線でつながっています。線でつながらない要素はありません。構造主義から見ると素朴実在論は「他のどの要素とも線でつながらない要素が存在する」と主張しているように見えます。構造主義では素朴実在論で存在しているとされているものの見方がこのように異なりますが、存在についての考え方でなく人間の認識に対する考え方も素朴実在論とは異なります。人間は何かが存在していると感じる事がありますが、それは実際存在しているものを人間が認識できる能力があるからではなく、要素間の関係から実体のように思える事を実体であると勘違いするプロセスとして考えます。実在論を「リアリズム」と言いますが人間は「リアリティ」があるものを「実在する」と勘違いする性質があります。「リアリティ」を感じる事は「リアリティを感じた対象が存在する」かどうかとは別問題であるのにリアリティを根拠に何か単一の実在があると主張しているのが素朴実在論だ、と構造主義は批判します。実際によく考えてみると「何かが実際に存在する」ということと「何かが存在するように強く感じる」ことをもって我々は何かが確実に存在し、正しく認識できると思っているのです。構造主義はその様な素朴実在論のからくりを分析し、批判しました。  関係ということばを広く使います。要素は他の要素と関係をもつことがあります。一方が他方の材料である場合もありますし、「ある要素が他の要素より大きい」というような大きなの違いや、「ある要素は他の要素より明るい」と言うように明暗の程度を関係性としてもかまいません。ある要素と他の要素が関係がなければ要素間に線は引けないし、要素同士が色々な関係を持つならば2つ要素の間を複数の線でつなぐことも可能でしょう。  要素の数がもし有限であれば原理的には要素同士の関係を全て線でつなげるかもしれません。異なる2つの要素は「関係」というものをいくつ取るかによって複数の線でつなげます。「要素」の数と「関係」の数が小さく有限であるとします。要素を点で、関係をどんな関係であれ要素同士をつなぐ線分で表すとすると要素と関係全体を図示することが出来ます。3次元的な模型を作ることも出来ます。この図示(グラフと言いましょう)や模型が完成したあかつきにはグラフから点を消してしまっても線が遺っているので後からまた点を書き入れることが出来ます。そこで点を書くのを省略しましょう。すると「線があれば点は要らない」ということになります。言い換えると「関係性が全て明らかであれば、要素が存在する必要はない」ということになります。「要素」を「存在」と再び書き直しましょう。すると「関係性から存在が二次的に生じる」ということになります。つまり構造主義では関係性の規定があれば存在は必要ないのです。必要はありませんが存在があっても構いません。だから言い換えれば「関係性の規定だけあればよく存在の有無はどうでもよい」となします。  構造主義の結論を導いたところで逆に素朴実在論を眺めると「存在があり、時に存在同士が関係することもある」ということになります。実在同士に関係があろうがなかろうが存在があることに変わりはありません。「存在は他の存在と関係があるかないかに関わらず存在することは確実と言える」「存在が一次的で存在同士の関係があるかどうかは全く関係がない別の問題である」というのが素朴実在論の結論になります。素朴実在論の存在論はその様なものですが認識論も同じようになります。「人間は存在を確実に、正しく認識できる」 「人間が存在を正確に認識できるという事実は、存在同士が関係を持つかどうかとは全く関係がない」という結論になります。 (字数24576字)

2020年12月15日火曜日

わかりやすい現代哲学202012150323

§5.素朴実在論までの説明を行った。§6.の最後では構造主義について説明する。ここまでで字数19829字。§7を書くか書かないかはおいおい考える。 やさしい現代哲学 まえがき  現代哲学は難しそうに思われがちです。でもコツをつかめば誰にでも理解できます。コツをつかむにはきっかけが必要です。ダイヤモンドは世界一固いと思われています。しかしダイヤモンドをある方向からハンマーでたたくと簡単に砕けてしまいます。これはダイヤモンドは引っ掻いて傷がつきにくいという意味では確かに世界一固いのですが、劈開と言ってある方向から力をかけると簡単に割れてしまう面を持っているからです。  物事を理解することもダイヤモンドを砕くことに似ています。問題はどのような切り口からアプローチするかで難易度は簡単に変わります。ダイヤモンドをハンマーで叩く面や角度が分かればダイヤモンドは簡単に割れます。  何かを理解する時にはきっかけがあります。きっかけとは文字通り「切りかけ」がなまったものであり、何かを理解するというのは何かを切断するようなものです。切断するためには「切りかけ」なければいけませんが切りかけ方が悪いと切れるものも切れません。つまり簡単なものも理解できません。でも切り方が分かれば切れるのです。  2600年、古代インドでお釈迦様は仏教を作りお広めになり全アジアに大きな影響を与えました。東洋文化は仏教を基底としています。教えを説明するのに相手によって説法の仕方を変えました。後の世の人はお釈迦様が教えを説いた時期と説いた相手により経典を分類していますが愛手によって説明の仕方を変える事を方便と言いました。お釈迦様の教えは現代哲学と同じものと言われています。  本書では通俗的な例えを使って現代哲学をイメージできる様にしました。著者は4人の子供がいて子供たちに勉強を教えています。小中高の勉強を振り返ってみると大学で国語数学理科社会の教科をより深く(基礎から)より広く(発展させて)勉強した人から見ればほとんど嘘を教えているようなものです。基礎を説明もなく暗記させますし複雑にしないため大切な部分を省きます。結果として単純で解りやすいものがのこります。それはもう学問の原型を残さず別の形に変わっています。しかしそれでいいのです。子供の発達とはそういうものです。まず数を覚えさせ計算を覚えさせます。それなしに数とは何か、計算とは何かを教えるのは有害でしかありません。そもそも数や計算が何かと言うより大学ではそれを作って定義することから始めます。数や計算を知らずにその作り方から説明しても子どもには理解できず、かといって数や計算のイメージを持つ事も出来ず、何もできない子供になり不幸な人生を送るでしょう。大切なのは順番です。  現代哲学も順番が大切です。順番が大切ですがどういう順番がいいかは人それぞれです。それはお釈迦様の方便と一緒です。本書の切り口は現代哲学のイメージを作ることです。なぜそうなのかの説明は二次的なものとして結論を示します。前提として現代哲学のイメージを持っていない人に説明から始めるのではなく現代哲学の形を示します。現代社会は現代哲学神話的な社会ですので勘がいい人はそれだけで何かを悟る人もいるでしょう。ただダイヤモンドの専門家でもない人がたまたまダイヤモンドをハンマーで叩いてダイヤが割れたとしてもただの偶然かもしれません。しかしダイヤモンドの専門家に調べてもらって正しい方向から正しくハンマーを振り下ろせば割ることが出来るでしょう。現代哲学と言うダイヤモンドもそれと同じです。  仏教の核心は大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論、それをまとめると天台宗の中興の祖天台智顗の三諦論でそれを基本に東洋思想と東洋社会は作られました。それと同じように現代思想も、そして現代の社会も科学技術も現代哲学から作られています。  地球の大部分、70%以上を形成するのはマントルであり、マントルはかんらん岩でできています。そのマントルの中で作られるのがダイヤモンドです。ダイヤモンドは一番固くて傷つきにくいうえに屈折率も一番高いので一番輝く宝石であり「宝石の王様」と言われています。  現代哲学もマントルにおけるダイヤモンドの様に全ての知の結晶です。現代以前の全ての知の集大成から生じてカットして磨いたダイヤモンドが光を全ての方向に放つようにそこから放射して現代の全て思想、科学、技術を作る知の原石です。  本書が人類が到達した知の深層にたどり着くための道しるべになって多くの人が現代哲学を分かったと感じられるように祈り本書を執筆します。 §1. もう考えるのはやめよう!  「我考える、ゆえに我あり」「人間は考える葦である」、デカルトとパスカルの言葉です。意味はともかく人間は考えるものだということを言っています。  好奇心のおもむくところ、知りたいと思う心があるとき人は何かを考えます。考えようと望まなくても考えていると自分で意識しなくても人は何かを考えています。その「何か」は広範囲におよび、人が考えられる限りの全ての領域に網羅するようです。  人が考える事の中で究極のものと考えられたのが「真理」、とか「法則」などと呼ばれるものです。正しくて確かで全てのことを説明してくれる知の到達点です。「真理」や「法則」が分かれば全ての知りたいことが分かります。知りたいことの説明もつきます。間違っていないと主張できます。  「真理」や「法則」は宗教や哲学の専売特許でしたが途中から自然科学が参入しました。哲学は人文科学で研究されるようになります。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では「宗教」は「心理」や「法則」を知っているのは全知全能の神のみであると考えます。神は正しく全てを知っています。そもそも全ては神がつくったものです。議論の余地はありません。  哲学は「考える」ことによって「真理」や「法則」を研究します。その結論をまとめたものが現代哲学です。  現代哲学の結論は「もう十分に考えた。これ以上考えても仕方がない。もう考えるのは止めよう」というものです。この場合「考える」とは「探求する」ということです。  哲学が探求する「究極の真理」は何千年も天才から普通の人まで膨大な数の人類が追求してきたことです。そのため議論が出尽くしてしまった、と見なされるようになりました。 議会や会議で例えてみましょう。例えば古代から現代までの人類の天才たちが集まって会議をしたと考えます。その場で「真理」とは何か「「これ以上議論しても仕方がない」という感じです。議会や企業の会議で言えば「議論は出尽くした。決を採ろう」となります。学術的な議論の場合は決を採る必要はありません。 それでは会議や議会はムダかというとそうではありません。有益な点があります。持っている議論の材料を出し尽くすことが出来るかもしれません。また違いを知ることが出来るかもしれません。そして「ここまでは合意出来る」という共通点を見つけることが出来るかもしれません。つまり議題に対して「全会一致の結論が出る」までの有益性はないにせよ、「ここまでは全員が賛成できる」という部分的な合意は出来るかもしれません。合意できる全員の一致点を明確にすることは一つの情報になります。会議や議会が全く無駄なものに終わるか有益かどうかはケースバイケースです。哲学の場合は一致点を見出すことができました。 哲学が探求してきた「真理」や「法則」についての一致点をまとめて表現したものが現代哲学です。現代哲学は「これ以上考えても仕方がない」かどうかについて明確に判定します。同時に「全員一致の結論が出る」部分についても明確に判定しています。別の面から見ると哲学という学問の最低限の常識を示すことに成功しています。 その常識は何か。哲学では「有無を問う」「ある場合にはそれがどんなものかを問う」ことが問題になります。 哲学の最終的な答えは全員が合意できる「真理」や「法則」が有るか無いかは分からないというものです。そして例えそれが有ったとしてもそれがどういうものかは分からないというものです。  ここから現代哲学の1つ目の結論が導き出されます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。  これが現代哲学の1つ目の結論です。  次のセクションで2つ目の結論を示しましょう。 §2. これからは作っていこう!  §1の結論について別の見方をしてみましょう。  やはり人類の天才たちの会議を例に考えてみましょう。 「有無」「何か」「どういったものか」という問いをするとき、我々は既にある何かを念頭に置いています。§1で現代哲学が出した結論は「そういう問いへの答えは分からないので考えても仕方がない」というものです。真理や法則のようなものが「有る」「無い」「何々とは○○というものである」「どのようなものかというと○○というものである」と提案しても全員の意見の一致は得られません。もし一致があるとすると全員が棄権する場合です。もし全員棄権全会一致で何らかの合意が得られてもそれは正しさや確かさの保証にはなりません。多数決は決めるためのもので正しさや確かさを確認するためのものではありません。多数決では分からなくても決める事は出来ます。何しろ多数「決」と言うくらいです。これは悲観的な結論に見えるかもしれません。こんな結論受け入れられないと思う人もいるかもしれません。 しかし分かることが出来ずに決めることしかできないと書くと否定的に聞こえますが、逆に言えばもう分かろうとする必要がなく、決めることが出来るので決めることに専念すればよいと考えてみるとどうでしょう?今まで分かることに気を取られ過ぎて「決める」ことについては考えてこなかったとも考えられます。分からないことは考えずに決めることに全てを費やし集中的に考えてみます。すると決めることで新たな世界が開かれることが分かります。 物事はコインのようなもので表と裏は切り離せません。表裏をいい面と悪い面としてみましょう。コインが表裏一体のごとく物事のいい面も悪い面も同じものの別の側面に過ぎません。いい面があるゆえに悪い面があり、悪い面があるゆえに良い面があります。悪い面をなくすといい面もなくなり、いい面をなくすと悪い面がなくなります。ピンチの後にはチャンスありと言います。失敗は成功の基とも言います。    会議の反対は議会です。議会は法律を作るところですがもっと広く言うとルールを作るところです。過去から現在までの人類の天才たちを集めて議論しても「真理」や「法則」があるのかどうか、あるならどんなものなのか分からないというのが§1. の結論でした。何が確かか正しいか分からないことが分かったのだからもう考えるのをやめて自分たちで確かで正しいものを決めるというのが現代哲学の2つ目の結論です。  本当に必要なのか分からない会議に参加させられて不毛な議論にうんざりした経験のある方は多いでしょう。それは法律を作る議会のようなものです。§1では考えるのをやめようという結論について書きましたがそれは何も考えなくてもいいということではありません。「正しく確かなものを発見して証明する」ということから「正しく確かなものを作って機能を検証する」ことに考える事が変わっただけです。 この様に前提を替えてみると「正しさ」や「確かさ」などの言葉や概念は根本から見直す必要があります。もし「正しい」とか「確かな」という言葉を使うのであれば現代哲学のやり方で定義しなければいけません。そもそも「正しい」とか「確かな」という言葉や概念は現代哲学では必要ない可能性も出てきます。また「定義」という言葉も掘り下げると現代哲学では定義はするものであってされているものではありません。 そこで現代哲学では決めること、そして決めることを作ることが重要になります。度々議会を例えに使いますが議会で法案を作成し法律を成立させるのに似ています。現代哲学ではアイデアは発見するものではなく発明するものです。何かもうあるものを吟味するのではなく何かまだないものを構築します。 §1.で会議で全会一致の合意ができないものは切り捨てる話をしました。そこから「分からないものは考えない。考えても仕方がないものは考えない」という現代哲学の1つ目の結論を導きました。 しかしここから得られる教訓はこれだけではありません。全会一致できるものがないことが分かっても人間が考える生き物であることに変わりはありません。しかし「真理」や「法則」を発見しその正しさと確かさを保証するために頭を考えてるのはもう止めるというのが現代哲学の結論でした。分からなくても人間は決めることが出来ることも分かりました。そこで導き出る現代哲学の2つ目の結論は「全員一致で合意できない場合には全員一致で合意できることを作ってしまえばいい」というものになります。考えることを分かることではなく作ることに振り替えます。  ここで§2.で説明したことをまとめてみます。これが現代哲学の2つ目の結論です。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 §3. ポスト構造主義  §1.と§2.の結論を並べてみます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 もったいぶって長々しいと分かりにくくなることがあります。ですから最初からはっきりさせると①と②はポスト構造主義と呼ばれる考え方です。「ポスト構造主義」という名称は構造主義の後の思想という意味ですからそこから内容を推測することはできません。①と②をまとめてみると「真理や法則というものは分かるものではない。決めるものである」ということになります。  では何を真理や法則と決めましょう。大きく分けて2通りです。1つ目は自分で決める作ること、2つ目は既にあるものを借りてくることです。  この1つ目の「作る」ことがポスト構造主義の3つ目の特徴になります。この特徴と2つ目の「借りてくる」をまとめて、 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  これが現代哲学の3つ目の結論になります。  現代哲学はポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の3つの考え方から成り立っています。特に①②③はポスト構造主義の考え方になります。素朴実在論と構造主義については後の章で取り上げます。  §1.と§2.では人類の歴史上の天才たちの会議と議会の例えを使ってきましたので§3.でもその例えを使って考えてみましょう。  天才たちは真理や法則の候補をどんどん提案します。それを議論してどれが本当の真理か法則かを決めていきます。  心理の候補となるのは宗教た人類が目下構築中の自然科学、色々な哲学者が作った哲学  人類の歴史上の天才たちが集まってこれらの真理や法則候補を吟味します。  心理や法則の候補として有力なものは法案として議会に挙げて議場で議論し法律として採択します。  この天才たちの議会と懐疑に①を適用してみます。すると― どんなに話し合ってもどれが真理か法則かは分からないので議論しても仕方がないということになります。  議論しても仕方がないとはどの提案も真理・法則であるという結論は出せないということです。これは天才たちの頭が悪いせいではなくもともとそういうものである、と言うのが①が言っていることです。  これで終わらないのが②です。真理や法則はそもそも決めるものであって決まっているものではない、とイメージしてもらえばいいでしょう。 ①②を合わせるとあるのかどうか、あるならばどのようなものか我々には分からないが決めることはできる、ということを言っています。意志と決断の問題と言っているのです。 会議と議会の例で考えてみましょう。会議や議会では議論が行われます。議論をすることは考えることや分かることと一緒です。会議は議論するだけの場合もあるが決を採る(採決)、議決する場合があります。これは何かを決めることです。議会でいえば法案の議論から決を採り法律を制定することになります。 何かを決めることは決めたことが良いか悪いかや、正しいか間違っているかとは別の問題です。どんなに天才が話し合って決めた事でも間違っている場合もあります。実行したらとんでもないことになることを会議で決めてしまう場合もあるでしょう。議会であれば法治国家が機能していればとんでもない悪法でも施行されてしまいます。そもそも正しいか間違っているか、良いか悪いかが分かっていれば会議や議会など必要ないのかもしれません。正しい結論、良い結論が分かっているのにそれを実施させないために会議や議会を行い、悪い、間違っている結論を会議や議会で決めてしまう人たちもいるかもしれません。 ②は意志や決断が大切であり、人間に出来ることはそれしかないとも言い換えることが出来ます。議会や会議で決めたから決まったことが正しいとか良いとは言えないのです。決めること自体と決めたことの良否や正誤は別問題ということです。 直接民主制でも間接民主制でも議会制度とは議場を提供し議論するという機能と議決し法を制定するという異なる2つの機能を持つと考えます。考え、判断・決断し、行動し、行動の結果を受け入れる(責任を取る、尻(ケツ)をとる)ことを主体性とすると主体性を持った人が議会を形成するべきであるというのが自由主義的民主主義の考え方です。選挙権、被選挙権を持つ、議会の決定に関わる人は主体性を持った人で構成するのが理想です。極論をするとこの場合、主体性を持っても明らかに最良で最善な結論があるにもかかわらずそれを理解できない人が多ければ議会では最悪な決議がなされてしまうこともあり得ます。それでも②は人間には決める能力があると結論しています。たとえそれが最悪な選択肢であってでもです。  人間が決めることが出来るということは、決めることがどんな考えに基づいているとしても、決断(や判断)し、行動し、結果を残すことが出来るということです。  ここで①に返りましょう。人間は心理や法則について考えても有無、良否、正誤について分からないというものでした。そういったことを考えても仕方がありません。真理や法則にが分からないのであれば、分かるような真理や法則を作るというのが現代哲学の3つ目の結論です。  「正しい」や「確か」という言葉の意味を定義し、定義に合うように真理や法則を作ることに方向転換します。そうすると「真理」や「法則」は作られたものになります。これは決めた人々とって定義された「正しさ」「確かさ」を満たされていればよいのであって、これを決めた人々にとってだけの真理や法則です。そう決めることに同意しない人々にとっては正しくも確かでもありません。ですから昔ながらの意味の「真理」や「法則」とは異なるものと見た方が良いでしょう。異なるものには別の名称を付けた方が良いので「真理」の代わりに「公理」という言葉を、「法則」の代わりに「公理系における定理」という言葉を使ってみます。みんなにとっての真ではなく決めた人々にとってだけ正しく確かであればいいのですから「真」ではなく「公」という字に代えてみます。公理は人工的なものです。別にそれを公理と決めたくなければ認めなくても構いません。他人が公理と認めないのも自由ですし、自分が状況に応じて公理と認めたり認めなかったりしても構いません。つまり誰かに承認される必要はないですし、いつでもどこでも一貫してそれを公理と認め続けなければならないというものでもありません。約束事でありルールですから深遠な神学や哲学と言うよりはゲームやスポーツのようなものです。自然言語よりはプログラミングや通信の規格のようなものです。探求する科学より想像する工学、調査するノンフィクションより想像するフィクションのようなものです。  「決める」場合に何を決めるかについて上記は数学や自然科学の場合です。他に宗教や天才哲学者の哲学について考えてみます。  宗教の例としてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを考えてみましょう。これらの宗教は唯一の神がいて神は絶対で万能で全てを作り何もかも知っている存在です。人間は不完全な存在で神の様にはなれません。この場合人間が決めることはそのような神を信じるか信じないかです。また神の言葉が描いているとされる聖書を信じるか信じないかです。まとめると「神と聖書を信仰する」ことを決めるか決めないかです。「信じると決める」か「信じると決めない」かです。後者の「信じると決めない」ということは「信じないと決める」ことも含みますが、「信仰するかどうかを決めることをしない、あるいは保留する」や「信仰するかどうかに興味がない、どうでもいい、問題にする必要を認めない」などの場合を含んでいます。現代哲学のスタンスでは宗教に限らず何かを信じるか信じないかどうでもいいから問題にしないかを決める、ということに言い換えられます。  現代哲学では決めることが大切なので、信じる人は信じると決めたらその人にとてってはそれが真理と決めることになります。ただ注意点として聖書や神を真理と考えても、他にも真理がある可能性もあり、それも同時に信じることも出来るかもしれません。他の真理が神や聖書と矛盾していても人間は矛盾したことを信じられる性質を持っています。他の例として神も清書も否定すると決めるのも好例で、これは無神論になります。神や聖書が真理かどうか分からないと積極的に決めた場合は不可知論と言います。その他「神や聖書や心理や法則はどうでもいいと決める」立場もありこれはお釈迦様の考え方です。原始仏教の経典に簡単に書くと「そんなこと考えるよりも修行しろ」とお釈迦様が仰られたとの記載があります。  では宗教ではなく過去の色々な哲学者の哲学について考えてみましょう。哲学は真理や法則を探求しようとする姿勢がありました。そして哲学者によって考えられたのが色々な理論や仮説です。よくできた理論や仮説についてはそれを真理や法則としてしまっていいのではないかと考える人、実際に真理や法則と考えた人もいたようです。後者は何かの「理論や仮説を真理と信じる」と決めたことになります。無意識の決心かもしれませんが人間は沢山の無意識の決心がある、言い換えると「人間は知らない間に何かを信じているが、自分ではそれに気が付いていない場合がある」ということになります。  真理や法則を「決める」ことが必要であるなら何を正しく確かなことと決めるかの選択になります。そのため科学、宗教、哲学などの例を見てきました。  科学の場合は理論や観察・観測を正しいものと決めます。この場合理論は誰かが作ったものです。発案者にとっては自分で作ったものを決める対象に出来ますが、それ以外の人はその発案者の発明を借りてきて決める対象にします。  宗教の場合は教義を作った人々が分かるのであれば彼らは自分たちで作ったものを決める対象にしますがそれ以外の人々はそれを借りてきて決める対象にします。  哲学の場合は哲学理論を作った哲学者はそれを決める対象に、それ以外のその哲学理論を決める対象に人々はその理論を借りてきて自分の決める対象にします。  §1.と§2.と§3.の特徴をまとめて再述します。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  そもそも本当は何も正しいもの、確かなものを特定する必要はない可能性もあります。正しいもの、確かなものに執着するのは現代哲学より前の思想の特徴です。  そういう意味では①②③は現代哲学の外から見た現代哲学の見え方です。   次の章でポスト構造主義を簡単にまとめます。その後の章で現代哲学の3本柱のうちの2本(1本はポスト構造主義で3本のうちの大黒柱)を説明します。 §4.ポスト構造主義    いつもの通り結論から書くと「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」です。  前章までで真理、法則、正しいもの、確かなもの、公理、定理、理論、観測・観察、宗教の教義と色々な言い方が出てきました。その候補として上げられるものはひとまとまりの考え方です。これをイデオロギーとここでは呼びましょう。日本語に訳すとイデア+ロゴスですから思想や倫理といえるかもしれません。思想や倫理とは広くは人々の思いなしであり、合理的、論理的なものはごく一部です。「理」とは「璞を磨いて現れる模様」が語源です。模様とは図でありグラフでありもっと言えば絵です。「絵」には正しいとか確かだとかは関係ありません。同じような語源論法を使うと「論」とは「言」と「侖」の会異形成文字で竹簡を集めることで文章や発言のまとまりの事です。「議」とは「言」と「議」を組み合わせた会意形成文字です。「義」は更に「羊」と「我」という二つ文字からできています。原義は神のために捧げる羊を正しく切り分けること」で転じて正しい判断という意味になります。漢字を形成する最小単位を「文」、文を組み合わせて出来る漢字を「字」と言います。「議」は「言」+「羊」+「とは判断するということで「議」とは言葉を使って正しい判断を行うことを表します。理論とは、(1)「絵」を文章にすること、あるいは②「理」と「論」つまり絵と文章を使って表現されるもの、つまり説です。「説」は「言」と「兌」の会異形成で「論理とは2つの意味、一つ目は「論」と「理」、文章と絵を使って表すことあるいは表さ「兌」ははがすの意味でので「説」言葉ではがして中身を出すということです。「論理」とは「論」の理、つまりその論がどのような構図になっているかを示すことです。合理とは「理に合うこと」つまり絵や構図やグラフ、言い換えれば関係性に合っていることを表します。  イデオロギーという言葉は科学や哲学の理論や仮説も指しますが、「生き方のスタイル」「行動のポリシー」など単にその人が個人的な嗜好で決めた正しいだとか確かだとかは関係ない考えや意図なども含みます。普通、イデオロギーというのは現実と関係します。例えば物理学の理論は現実の観測結果を矛盾なく説明するためのものです。宗教の教義はその人の現実の言動や行動を戒律に合うようにさせるでしょう。個人的なスタイルやポリシーも同様で現実の何かから影響を受けて形成され、形成されたスタイルやポリシーに従って現実を生きます。大まかに前半は理由を説明するためのもの、問題に答えを与える説明体系であり、後半は思考、感情、意志、行動などにおける実践方法を示したものです。    最初の「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」というテーマに戻りましょう。言い換えると「ポスト構造主義とはイデオロギーに関する理論である」ということになります。  イデオロギーの研究は他にもあります。そしてイデオロギーに関する色々な理論や説があります。ポスト構造主義もその一つです。イデオロギーに関するイデオロギーをメタイデオロギーと呼びましょう。ポスト構造主義はメタイデオロギーです。メタイデオロギーに対して普通のイデオロギーは現実と関係があるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。これはmetaphysics、physicsと呼ばれる形而上学や形而下学と似ている様に見えますが特に関係がないので誤解がないよう注意として挙げておきます。  ポスト構造主義のイメージを膨らますための例示をしていきます。 メタイデオロギーであるポスト構造主義の特徴として「どれか特定のイデオロギーを特別視することはない」というものがあります。これをイデオロギーについての相対主義と呼びます。相対主義以外にはどれかどれかのイデオロギー絶対視するイデオロギーの絶対主義というものがあります。これは特定のイデオロギーが正しく確かであるとする考え方です。イデオロギーが理論や仮説であれば真理や正しく確かな法則に格上げします。生き方に関するイデオロギーが正しく確かであるということであれば「こう考えこう行動しなければいけない」「こう考えてこう神津してはいけない」という風に生き方を強制します。ポスト構造主義はある特定のイデオロギーの絶対化を行わないため、現代哲学を勉強してマスターし現代哲的な生き方をしようと決めた場合、どれか特定のイデオロギーに盲従することはなくなります。現代哲学ではどれか特定のイデオロギーを推奨することも排除することもしません。イデオロギーはみな平等です。特にどれが正しくどれが確かだという見方をしません。そんなことは考えても仕方がないことだと考えます。その代わりにその時々、場所や状況に応じて自分の従うイデオロギーを自分で決めます。その状況に合ったイデオロギーがなければ作り、あれば借りてくればよい訳です。適当なイデオロギーが見つからず選択できなければその様な知的な作業を行わず気の向くままに考え行動することもあります。 現代哲学ではどのイデオロギーを選択してそのルールに従って行動するかは完全に自由です。損益やコストパフォーマンスを高めるなどの条件があればそれに適したイデオロギーを選べばいいですし、特に条件がなければ気まぐれに、あるいは直感で、あるいは嗜好でイデオロギーを選択する、あるいはイデオロギーの選択ということを考えずなすがまま、成るようになるよう、出たとこ勝負で考え行動してもいいでしょう。 どのイデオロギーを選択するか、あるいは選択しないかは自由です。複数のイデオロギーを選択するのもあり得ますし、選択したイデオロギー同士が矛盾していても矛盾する両方のイデオロギーを同時に選択することも出来ます。このようにポスト構造主義のイデオロギーの選択の自由をメタ自由主義と呼びましょう。「選択」という言葉を使っていますが、これは前のセクションまでの「決める」と同じ意味です。ただの自由主義ではなくメタ自由主義と呼ぶのはこれがやはり一般的に言われる自由主義とは異なるからです。一般の自由主義とは世俗のイデオロギーの自由主義を指します。具体的な世俗のイデオロギーは現実と関わるため自由に現実的な制限があります。メタ自由主義は現実と関係ない観念としての自由主義であるため現実の制約がありません。怖い程に自由です。この現代哲学の自遊空間には世俗的イデオロギーの集合があってどれをどの組み合わせで選ぶかが自由です。そこであるイデオロギーを選択するかしないかは選択肢になります。採決し採択した選択肢を採用するわけです。 現代哲学をマスターするということはこれらを意識し自覚的に実行できる能力を持つということです。 ポスト構造主義では何でも決めていい、選択してもいいと書きました。現代哲学に他に必要なものはメタ認知と自覚です。 メタ認知とは自分が思考上、イデオロギーの採用を行っていることを自覚している状態です。客観的、あるいは俯瞰的な目で自分と自遊空間、選択肢、選択肢を決める作業を行いそれを自覚するということです。 「随処に主となれ」これは仏教の言葉です。いつでもどこでも自分が主体となりなさいと言う意味です。「いつでもどこでも自分が主体となりなさい」と言う意味です。現代より前の真理探究は㋐「何かによって何かが決まっている」、㋑「何かが何かを決めている」という意識があり、「それを探求し証明するのが人間だ」という形式から成り立っています。具体例でいうと㋐の例は「神が世界の全てを決めている」、㋑の例は「自然の究極の法則があり、それが世界の全てを決めている」などです。 この形式を別の視点で見ると主たる何かがあり、自分はそれに対して従の立場にあるという姿勢が隠れています。現代哲学はこれの逆の立場を取ります。つまり自分が主で自分が決める何かは従となるということです。従になる「何か」とは現代哲学でははイデオロギーを指します。現代哲学から見れば、現代哲学より前の「イデオロギーがあって人間がそれに従う」のではなく「自分がイデオロギーを従える」という見方になります。より詳しく言うと「必要であれば自分がイデオロギーを選んでそのイデオロギーに従うと決める」ということになります。言い換えると自分がどのイデオロギーを選ぶのか決めます。 ここでもう1つ強調したいのは「必ずしも人間は従うイデオロギーを決める必要がない」ということです。イデオロギーを決めるということは故意の行動になりますが、別に人間はわざわざイデオロギーを決めなくてもよい場合があるということです。「良い場合がある」どころか「決めなくてもよい場合の方が多い」と言ってもいいかもしれません。何らかの理由でイデオロギーを決めようと思った場合にのみイデオロギーを選べばいいわけであって、決めようと思わない、あるいは決めるのを避ける場合にはイデオロギーを決めないことが選択肢になります。この「イデオロギーを決めない」ことも現代哲学の大切な考え方です。 イデオロギーを決めるか決めないかは任意で、決めない方が自分にとって幸福な場合や不幸を避けれる場合もありますし、決めたことで不幸になったり幸福を失う可能性があります。ですから「イデオロギーを決めない」選択も忘れないようにしましょう。 では「自分が従う立場になる、自分より上の主に当たるものはないのか?」という問いを立ててみましょう。これに対する現代哲学の答えは§1.の①、「分からないから考えても仕方がない」になります。 ここまで一口にイデオロギーと言ってきましたがイデオロギーについてもっと具体的に考えてみましょう。イデオロギーを決めるということはそのイデオロギーに従った思考や行動をするということになります。さてイデオロギーをどうやって見つけたらいいでしょう? それは§3.の③「人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る」を適用します。つまり新たなイデオロギーを作るか、すでに知っているイデオロギーを借りてくるのです。既にあるイデオロギーを借りてくる場合のイデオロギーは自分が前に作ったものであったり、他の誰かが作ったものであったり、出所不明なものであったりします。何であってもそれを自分のイデオロギーにしようと思えばすれば良い訳です。 では自分が決めたいと選びたいと思うイデオロギーが思いつかない場合はどうしたらいいでしょう? まあなんでもそうですが過去の勉強は大切でいろんなイデオロギーを勉強して知っていなければ何かの理由で何かのイデオロギーを選びたい場合でも適当なイデオロギーが思いつかないかもしれません。イデオロギーを決めたい理由が出来てからイデオロギーを探すのが1つの方法ですが、見つからない場合には§3.③に含まれているもう一つのルール、「作ることが出来る」から自分で作るのが解決法になります。③は何らかのイデオロギーを作れることを保証しています。現に今あるイデオロギーのうち、出所が確かなものはたくさんあります。沢山のイデオロギーが昔の人々によって作られましたし、今もこれからも作られていきます。「イデオロギーを作る」ための難点はイデオロギーを作る能力が必要なことです。この場合の能力には「時間」や「労力」を含めることにします。“能力”ですので過去の勉強や教養がとても大切で時に歳を取ってから「若いうちに勉強しとけばよかった」とか若い人に「若いうちにべんきょうしとけ」という年配者の存在からこれは分かります。とにかく借りてくるイデオロギーが見つからないけれどもイデオロギーを決めたいと思う人のもう一つの方法は「自分でイデオロギーを作ること」になります。 §4.以降は「イデオロギーの借り方と作り方」がテーマになります。そのために「素朴実在論」と「構造主義」の勉強をします。ポスト構造主義が現代哲学の骨格をなすものであるとすれば、「素朴実在論」と「構造主義」はイデオロギーを分析したり理解したりするのに必要です。全てのイデオロギーはこのどちらか、あるいは両方で作られて行っても過言ではありません。「素朴実在論」と「構造主義」を学ぶことでイデオロギーの分類が出来ますし自分で作る時の参考になるでしょう。 §4.メタイデオロギー論からイデオロギー論へ   §3.まではポスト構造主義とは何かについて書きました。 ポスト構造主義と構造主義と素朴実在論は現代思想の三本柱ですが中でもポスト構造主義が支柱です。ポスト構造主義が分かれば現代哲学は分かったと言ってもいいかもしれません。ポスト構造主義はイデオロギーに関する理論です。ポスト構造主義が分かれば現代思想がイデオロギーをどう見ているかについて納得がいくでしょう。イデオロギーに対する姿勢も分かります。ポスト構造主義が分かっていれば現代哲学についてある程度分かっていると誇っていいでしょう。構造主義や素朴実在論の知識が曖昧でもです。人間はイデオロギーの操り人形ではありません。人形遣いです。イデオロギーが人形遣いで人間が人形であるわけではありません。  人形であること、人形遣いであることはどちらがいいとか悪いとかは言えず、どちらにもいい面、悪い面があるかもしれません。ですからイデオロギーが主で自分が従である状態を単に受け入れる方が幸福である場合もあるでしょう。しかし人形遣いになるなら人形の操り方とこの場合操る道具の人形について勉強しておくに越したことはありません。人形遣いの仕事は人形を操ることですが、§3.の③にイデオロギーを作るこが出来る事を書きました。これら人形遣いによる人形の研究、つまり現代哲学におけるイデオロギーの研究とイデオロギーの使い方、イデオロギーの作り方について理解を深めることに相当します。現代哲学を指針に生きることは主となることに相当します。  ポスト構造主義が分かれば現代哲学の半分は分かったと言ってもいいと思います。 これは現代哲学の習得の必要条件で場合によってはポスト構造主義のマスターだけでもいいかもしれません。  しかしポスト構造主義のマスターではなく現代哲学のマスターになろうと思えば残りの2本の柱である素朴構造論と構造主義の理解が必要になります。これを理解すると残りの半分を理解したことになり現代哲学のマスターの必要十分条件を満たすことになります。本書ではまず哲学の歴史の到達点であり総決算であるポスト構造主義のマスターを先に行ってもらうように企図しました。西洋の哲学の歴史を振り返ってみると全てがポスト構造主義に至るための過程であったと総括できます。つまり帰納的にポスト構造主義に収斂(収束)し哲学全ての原理となりました。本書は現代哲学の説明や成り立ちの解説ではなくイメージを持ってもらうことを意図して書かれています。ですので原理となったポスト構造主義から出発して演繹してそこから生じる全ての結論や運用方法を説明するように書かれています。ですが実際の哲学の歴史を見ると素朴実在論がまず暗黙の前提として気付かれぬまま存在し、それを批判する形で構造主義が見出され、その両者を相対化させて両立させる、弁証法と言う方法でいえば止揚させるためにポスト構造主義が生まれました。  素朴実在論と構造主義はどちらもイデオロギーの根底をなすものであり、イデオロギーはそのどちらかから成り立つか、その両方を同時に満たすように成り立つか、場当たり的にその両方をまぜこぜにして作られている場合が殆どです。どちらにも全く関係していないとすれば思考ではなく感情や意欲によって成り立つ神秘主義や本能のままに行動する刹那的な生き方か、思考する間も与えられるまま決断を繰り返さなければいけない切迫したスポーツや戦闘、仕事、生活、芸術等の場面などが挙げられると思います。これは思考をほとんどしない、あるいは出来ない場面で現れるあり方です。本書は哲学の思考を扱う面を重視し、イデオロギー論、メタイデオロギー論を主軸として議論を展開し、知情意のうち知である思考以外の感情や意欲などの情意については簡単に説明します。つまり西洋哲学は素朴実在論、構造主義、ポスト構造主義の順番で始まり発展し終焉しました。  他方で初めから、ポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の全てを兼ね備えて出発したのが仏教です。釈迦から始まり根本分裂、枝葉分裂と何回か混乱しますが大乗仏教の成立にて最初の根本に返ります。これをナーガールジュナ(漢字で龍樹の空論、中観論といいます。また中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗の三諦論(空、戯⦅仮、色ともいう⦆、中の3つの論から成る理論もそれにあたります)しかしその後の歴史はその根本が忘れられたり思い出されたりの繰り返しでした。いわゆる東洋思想は仏教の影響を強く受けているので現代哲学的な要素が繰り返し現れるように見えます。仏教では教えの核心に到達することを悟りとか解脱といい悟った人を仏陀(覚醒者)といいます。おそらく仏教の歴史上有名、無名を問わず悟った人がしばしば現れたのでしょう。  ポスト構造主義については前の三章で説明しました。次章からは素朴実在論と構造主義について説明していきます。 §5.素朴実在論とは何か?  「実在」とは何でしょう? “実際に存在する”を縮めた言葉です。哲学では似た意味の言葉に「実存」というのがあります。「実存」は“現実的存在”の意味です。 「在」は会意形声で「土」+音符「才」であり「才」はイコール「在」と同じで古体は「扗」になります。流れをせき止める板材の象形(又は指示)で「とどまる」の意味になり、流れをせき止め場所を明確に区切ることです。「存」は会意で「才」+「子」から成り立ち、「才」で流れを止めて「子」をあるべき場所に据えるという意味です。  「実存」の「実」の「現実的」とは「現実を受け入れる」「現実を見ろ」と言う場合の意味です。現実を出発点として考えそうなった原因や「人とは何か」「世界とは何か」という本質への問いかけをやめるということです。人と人を取り巻く世界を感じるがままの存在として受け入れそれが何かと問うのではなく、「人と言う存在はどうやって生きるか」「世界と言う現実は人にとってどのような意味を持つのか」と考えるのが実存哲学になります。  一方「実際の存在」である「実在」とは何かが確実に存在しているとする考え方です。何かとは自分が存在していると思っているすべての物が対象になります。実在論とは英語ではリアリズムと訳します。実在論は中世以前はイデアが実在するという理論でした。本書で素朴実在論と言う場合は控えめに言ってイデアでも何でもいいから何かが少なくとも存在するという考え方です。このように謙虚にではなく傲慢に言えば自分が存在していると思っているものは確実に存在するという考え方です。我々が何かを認識する時認識される対象は確かに存在してしかも存在をありのまま正しく認識しているという考え方です。  控えめに言って㋐「あるものが確実に存在すれば我々はそれを正しく認識できる」可能性があると言えるでしょう。あくまでも「控えめに言って」であり断定ではなく「可能性がある」とまでしか言えません。それではそれを逆にして㋑「我々が何かを認識しているから何かに少なくとも何かが存在しているのは間違いないはずだ」と考えるのはどうでしょう。㋐も㋑も成り立っていると考えるのが素朴実在論です。素朴実在論は知能の発達に障害がなければ我々全員が持ち得ることのできる考え方です。素朴実在論は意識して自覚されている場合もあれば、無意識に思い込んでいるだけの場合もあります。簡略化すると㋐′「正しく認識できるので認識できるので確かに存在していると言える」、㋑′「確かに存在しているので正しく認識できる」の両方が成り立っていると考える、あるいは思い込む場合を大雑把に素朴実在論と呼びます。この場合「存在」は知覚できる物体の場合もありますし、想像の中のイメージの場合もあります。  素朴実在論は正しいのかと言うと突っ込みどころがたくさんあります。まず㋐と㋐′を見ると何かを認識できることはその何かが実際に存在している事の根拠となるのか?という疑問が生じます。結論からいうと根拠になりません。現実にないものを幻覚や妄想であると思っているだけかもしれないからです。  次に㋑と㋑′を考えます。仮に存在しているならそれを認識できるか、その認識は正しい認識かという疑問が生じます。やはり結論から言えば例え確かに存在しているものがあったとしても、それを我々が認識できるとは言えないし、認識できてもそれが正しいとは言えない、ということができます。  つまり「何かが存在してそれを認識できる」ということと「何かを認識しているのでそのもととなる存在するものがあるはずだ」はどちらも間違っているとも正しいとも言えません。「確かな存在がある」としてもそれは「正しく認識できる」場合も「正しく認識できない」場合も等しく考えられますし、「何かを正しく認識している」が愛にも「確かなものが存在する」場合も「確かなものは存在しない、あるいは何も存在しない」場合も両方ともあり得ます。  存在の根拠に認識を、認識の根拠に存在をおくことはどちらもできないのです。 これが素朴実在論に対する批判論です。  批判論から説明しましたが素朴実在論とはつまり「何か確実なものがあって人は正しくそれを認識することができる」「何かを認識している時には実際に確かな存在があってそれを正しく認識している」からなる理論です。  この考え方には誰もがピンとくるでしょう。これは誰もが持っている考え方です。それはなぜかというと生まれてから大人になるまでの発達の過程で人間は素朴実在論を身につける様にできています。これは生物学的にも心理学的にも社会学的にも傍証が得られている考え方です。定型的な認知発達における土台をなすものです。素朴実在論的な認知能力を身につけないと子供でも大人でも社会に出てくろうします。これができずにIQが低く出ると知的障害や精神発達遅滞と言われてきました。IQが高い場合には通俗化した精神医学の知識に基づいて「発達障害ではないか?」と疑われてしまいます。  批判した後で持ち上げているようですがある意味では現代哲学の3要素の中ではこれが最も生きていくのに必要な考え方です。発達の過程で子供は素朴実在論を身につけますが、それを邪魔してポスト構造主義や構造主義を無理に教えようとしたらどうなるでしょう?山本七平氏の「日本人とユダヤ人」という本の中に「留学して外国の歩き方を覚えようとしたら身につかず、もともとの歩き方も忘れてしまって這って国に帰った男」の例が出てきます。これは悲惨な状態です。このような状態を社会学ではアノミーといいます。自分の準拠べき規範がなくなってしまった状態です。分かりやすく言うと素朴実在論は嘘です。厳密にいうと素朴実在論の考えたしかできない人は何かに騙され続けて生きていくでしょう。素朴実在論は批判はされても必ず必要です。しかし嘘に騙されずに生きていくためには構造主義を習得しなければいけません。同じ対象に対して素朴実在論と共に必ず構造主義的な見方が立出来ます。逆もそうで、構造主義的に見ている対象を素朴実在論的に見ることも出来ます。  教育においては最初は素朴実在論を前提に子供に教えます。ですから小学校、中学校、高等学校と言えども教わることは全て嘘です。しかし子供に勉強を教えてあげた人は分かると思いますが、人間は最初は素朴実在論的認知しかできません。ですからだましだまし嘘を教えるしかありません。義務教育では嘘しか教えません。しかしそれが嘘でない本当のことを学ぶための階段になります。嘘の階段を上ることでしか嘘でない本当のことを勉強できません。嘘でない本当の勉強は高等教育である大学で学びます。素朴実在論を褒めも批判のしましたが、素朴実在論的な考え方ができないならば例え構造主義やポスト構造主義をマスターしてもそれはそれで欠陥があると考えてください。その場合はイデオロギーについて構造主義でしか考えられない偏った人になってしまっています。構造主義は素朴実在論批判のために作られましたが、ポスト構造主義は素朴実在論を否定し構造主義でしか考えられない人を批判するために作られています。  ここまで構造主義については説明してきませんでしたが次章で構造主義について説明します。 §6.構造主義について   (字数:19829)